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無駄なことは楽しい

(リモートワーカー協会理事 石倉秀明)

一般社団法人リモートワーカー協会で持ち回りのコラムを書くことになっているのだが、2回目にすでに締め切りを守れず運営メンバーからのリマインドに申し訳なさでいっぱいになりながらこれを書いている。

私自身、2015年からリモートワークで働いているので約7年、リモートワークをしていることになる。世間一般的に見るとかなりリモートワーク歴は長い方だと思う。そんな私がリモートワークをして一番恩恵を感じていることがある。それは「無駄なことは楽しい」と気づかせてくれたことだ。

もう少し正確に言えば「無駄に思えていたことの本当の価値」に気づける。
例を出すとわかりやすいかもしれない。
例えば、仕事中にする同僚との他愛もない会話や、ランチしながらの世間話、仕事帰りに「ちょっと一杯飲んでいく?」と言ってたのについつい終電まで飲んでしまう… …などの行為である。これを無駄というと言い過ぎかもしれないが、仕事をする上で必須かと言えばそうではない。極端に言えば、それなしでも仕事は成立する。
だが、コロナ禍で一斉にみんながリモートワークになり、そして自粛生活に入った途端、非常につまらなさを感じた人も少なくないのではないだろうか。もちろん仕事はリモートワークでできる、ただ、何か面白くない、刺激がない、と感じていた人も多いだろう。不要不急の外出はできなくなり、本当に不可欠なことだけをやることが求められた。それはそれで生活できるけれども全く面白くないわけだ。

つまり今までの生活に彩りを与えていたのは「無駄に見えるもの」だったということだと思う。無駄に見えるけれどもそれがないと、本当に淡々と仕事して生活しているのは面白くないのだ。

言い換えれば、そんな大事だった「みんなとのおしゃべり」や「他愛もない飲み会」の時間を今まで私たちは軽く扱い過ぎていたとも言える。
私もリモートワークで働いて長いが、「対面で会う」「好きな人たちと食事する」ことの尊さや貴重さを改めて認識できたことは本当に良かったと思っている。だからこそ「誰かと会う」「誰かと食事する」という行為をリモートワークする前よりも大切にしているし、それが理解できている人と会ったり食事するのは充実した時間だ。

一方で「楽しくない無駄と思えること」も残っている。
その最たる例が「通勤」だ。首都圏で働いていて朝の通勤ラッシュ、帰宅ラッシュの電車が好きで好きでたまらないという人はいないだろう。少なくとも私は会ったことはない。
無駄と思われることの中にも「楽しいこと」と「楽しくないこと」がある。リモートワークになるとこの2つどちらも急に捨ててしまう人も見かけるが、「楽しいこと」はそのまま実行したらよい。私も飲み会は今でも圧倒的に「オフライン派」だ。オンライン飲み会は便利だけど、できれば直接居酒屋でワイワイやりたい。なぜならそれが自分には必要な無駄だからだ。

しかし、私にとって「必要な無駄」も他のある人にとっては「ただの無駄」な可能性もある。それを強制しないことの方が大事だし、リモートワークは幸いお互いの表情が見えにくく同調圧力が対面よりは作りにくいので強制しない・されないで済みやすい。
そして本当に削るべきは「誰にとって無駄でしかないこと」だ。これはすぐにでもやめたらいい。そのためにも「楽しい無駄か」「楽しくない無駄か」を常に問うことは大事な行為なのだと思う。

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