ディベートで得た論理性とその挫折について

ちょっと経験談を挟ませてください。皆さんに向けて「日常で役立つディベート講座」などと銘打っておきながら、それとは真逆のことをお話します。

ディベートで論理的思考能力を磨いて、日常生活で活かそうなどと、軽々しく申し上げましたが、ここには大きな誤りがあります。

もちろん、ディベートで得た考え方が実生活で全く無駄だと思っているわけではありません。ロジカルシンキングといえば聞こえはいいですが、もう少し一般的な物の考え方、思考の組み立て方、プレゼンの仕方としては大いに役立っていると思っています。

しかし、ディベートが上達し始めたころの私とおなじ過ちを、みなさんにはしていただきたくはないので、少々長くなりますがお付き合いください。

・ディベートはあくまでも机上の空論である

ディベートは、肯定側と否定側にランダムに振り分けられ、そのどちらかで議論をします。行ってしまえば、そこに自分の価値観、自分の感情というものは存在しません。勝つためだけに、勝つことを目的として試合をしているのです。

妥協して中間で落としどころをつけることもありません。プランをとるための予算について考えることもありません。その労力も、メリットが得られるとわかっていれば惜しみなく使われることが前提の話をします。

しかし、実生活では、私たちの行動選択は感情とは切っても切り離せないものがあります。どれだけ論理的に正しいとわかっていても、面倒くさくて動きたくない経験、ありますよね。宿題しろと言われると、やる気がなくなるのは身をもってご存知ではないでしょうか。

人間の感情や心理は非常に複雑です。論理的ではない行動をとってしまうよう本能によってプログラミングされてしまっていることも多々あります。学習性無力感という言葉をご存知でしょうか。逃げ出せない状況に陥ってしまうと、そこから抜け出せる活路があってもそれを選択することは大変難しくなります。

そんな状況の人間に、論理的に正しいからあれをやれだのこれをやるなだの言っても、事態は一向に解決しません。それどころか、人間関係が悪化するだけで終わってしまうことのほうが多いでしょう。

・相手はディベーターではない

『リングに上がっていない人間を殴ってはいけない』でもお話しましたが、さあ日常で議論の必要な場面が登場した場合、そこにいるのはたいていディベート未経験者です。

ディベートのルールに則って議論をしてくれる人はまずいません。今そこは論点じゃないというところに固執したり、別の場所に口を挟んできたりして、想定通りに事が進むこともそうそうありません。

サッカー経験者が、小学校の授業でサッカーをやることになった状況に紛れ込んだと想像してください。ひたすら目の前のボールを追いかけることに集中している人間が20人くらいいるなかで、一人でルールや戦略を説いたところでどうなるでしょう。

・そもそも話を聞く態度のない人間にはどうしようもない

どれだけ論理的思考能力を磨き、プレゼン力を身に着けたとしても「お前の話なんか聞きたくない!」という人はある程度存在します。

私は昔はしょっちゅう親子喧嘩をしていました。喧嘩といっても金銭的にも関係性的にも圧倒的な上下関係がありますので平等な喧嘩ではありません。私は親に向かって一生懸命、メリットを説明し、デメリットがどれだけ小さく済むのかを説明し、懇切丁寧に対話を試みましたが、親は「お前は親の言うことを聞け!」の一言を繰り返すばかりでした。

特に上司、親、恋人、などは関係性を利用してこちらの話をまったく聞かないことが結構あります。もうどうしようもないです。


「ディベートの能力があれば、誰でも説得することができるんだ」と思い込んでいた私の鼻っ柱をへし折ったのは、こういった挫折の数々でした。今思えば思い上がりも甚だしく恥ずかしい限りですが、日常生活では、ディベートのように物事はまっすぐ進みません。

でもそんなとき、曲がりくねった議論を整理して自分の頭の中を落ち着かせるのに、ディベートの能力が役に立つということは保証します。時間がたてば、両者の気持ちも落ち着いて、建設的な話ができるようになることもあります。あきらめないで、いろいろな角度から議論を観察し、解決点を探り出すのに、このnoteが少しでも役に立てばそれ以上に嬉しいことはありません。

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