子育ては車のメンテナンスと同じか? 「喩え話」の落とし穴

議論をしているときに、つい喩え話が多くなりがちな人っていませんか?何を隠そう、私がそうです。しかし喩え話、つまり比喩表現は、パッと見でなんとなくわかりやすそうにみえても、議論をより複雑にしてしまうという落とし穴があります。今日はそんな話です。

最初に、あえて「喩え」と書いた理由を説明します。「例え」と使い分けたいからです。辞書的な意味はともかく、本記事では、「似たもので表現する」ことと「より具体的な説明をする」ことを分けて考えて欲しいのです。

ここからは「喩え」は「野球とは人生だ」とか「子育ては車のメンテナンスだ」とかいうように、あるものを、様相の似た別のものに置き換えて議論をすることを言います。「例え」は具体例を示すこと、つまり「子育てとは、例えばオムツを変えたりご飯をあげたりすること」ということを指します。

具体例をあげることは、議論をするにあたって非常に大切なものです。しかし、前者の喩え話は、うかつに挟むと本当に面倒なことになります。

なぜなら、AはBである、ということの是非を検討しているときに、「AはCみたいなもんだよね。CはBだから、AもBだよね」という図式が追加されるからです。つまり、検討すべき事項が、A=Bだけでなく、A=C、かつ、C=B、と三倍に増えてしまいます。

喩え話なんかしなけりゃ一つの検証で済んだものを…と思わずにはいられませんね。「人生はチームプレーだ」というために「人生とは野球みたいなものだ、野球ではチームプレーが大事だ。だから人生ではチームプレーが大事だ」とすると、

「本当に人生は野球に喩えられるのか?どんなところに共通点があるのか?違うところがあるんじゃないのか?」

とか

「野球でもチームプレーより個人の力量が大事だろ」

とかいう反論は避けて通れません。ただの喩えだから〜といって逃げられるのは、飲み会の前の挨拶だけです。

さらに面倒なのが、なんとなく、印象でそれらしいと思い込んでしまい、上記の増えた2つ分の検証を疎かにしてしまいがちであるということです。確かに野球ではチームプレーが大事かもしれません。その通りだなーと思っている間に、人生でチームプレーが大事なのかどうかの、肝心の件が素通りされてしまうのです。

というわけで、人生を野球に喩えたり、子育てを車のメンテナンスに喩えたりするのは、ツッコミ箇所を増やすだけで、議論においてはあんまりいい手法ではないんです。

わたしは日常でもついこの喩え話をやってしまって、議論を無駄に長引かせたり、脱線させたりしてしまいます。無駄な口論を避けるためにも、自戒を込めてここに記します。


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