大量の下書きとその下に埋もれた自己
どうして自分は如何に不確定な存在であると信じてしまったのか どうして自分は存在していると言えるのか 私がこの身体を指して「私」と認識させるのは簡単なのに、本懐ではそうではない事を感じている。 名前、性別、生まれた地 職業、肩書き、他者からの評判 全てが私を取り巻く要素でありながら、そのどれもを私ではないと「それ」が否定する。 「それ」は私が何をするかを否定しない。肯定しない。ただ在るが儘を見つめているような素体だった。 上に挙げたものは、実際のところ付け替え可能なタグで
群れると価値を無くすのではなく、見出せなくなることだと最近気づいた
議論はしてみたい。 でもどうしても知識が足りなく感じて質問するばかりになってしまいそう。
誰でも酷く閉じこもっている時は、常に四方八方を鏡で覆っていて、その鏡に対して何度となく疑念や怒りや質問を投げる ただ時折、鏡に投げかけた音の反響を聞き間違えて、違う答えが返ってきたように感じる事がある
なぜ自分たちがこんなに周りに忙しくさせられている気分になるのか。 ずっと何かに焦らされている。必要のないことまで自分が駆り出されるような気がしている。 誰かにとっては世界を救わねばならない使命感なのかもしれないし、理由の分からない希死念慮になって出てくるのかもしれない。 事実以上のとても大きな問題の壁にぶち当たっている気がしてならないのは、単純に問題量が多すぎるからなのか。 それとも自分が何の詳細も得られていないのに「問題がある」と言われる事だけ共有され続けてきたからだろ
ふと何処かで見た誰かの弱音が、存在していた心の痛みだと思う度に、 お節介な気持ちを抱く。 その瞬間に立ち会って痛みを緩和したいと。 少しの瞬間の対話相手になれればと。
一番は自分を自己肯定して、学ぶことも行動することも任せるのが成長するポイントだ。 という、攻略本のネタバレの如き知識は、SNSの発達によって誰もが知ることが出来るが、 それとは別に自己卑下に快感を憶えるとそれはそれで一つの悪になっている。 卑下してる自分も一つの自分という矛盾。
未来的な予想というものを、それが客観的に見て話す人と、主観的な事実で話す人が在るように思える。 どちらが真実か嘘かは置いていかれ、当たっているかいないかですらなく、 それを信じた人がいるからには、 その人にとってその未来は確実になるのだろうか。
敗北主義的思考から抜け出したい
観察と洞察もデータに基づく理論は好きだし、そこに基づいた性格相性で夢をよく見る人も居るけれど、 実際のところは、理想以上に現実を見る方が自分にとって幸せなものがある 理想は現実への行動のために存在する
燃えるキリン
好きなものを自分が決められる様に自由でありたい
偏った機会均等主義と仲間外れに怯えすぎていた頃の人間の話 自分の能力が他よりも客観的に見て優れていたのを危惧して、 自分の能力を削ぎ落とすことで、 他人と同じ話ができると思っていた。 結果、話の合わない能力の低い人間に成り下がっただけだった。
結局のところ、自分探しをしている時が一番身近に自分を感じる瞬間であり、 その間は自分が分からなくなる事だけは分かっているという、不透明で歪な精神状態であり、 全てにおいて何の役に立たなくても、自分が何なのか(明確な答でなくとも)分かっていれば、自分の生において大満足するんだ。
表面上はINFPだが本質がISFPと判断され、第3ループ中だと評された者の心理機能図