駄文日記15

なぜ自分たちがこんなに周りに忙しくさせられている気分になるのか。
ずっと何かに焦らされている。必要のないことまで自分が駆り出されるような気がしている。

誰かにとっては世界を救わねばならない使命感なのかもしれないし、理由の分からない希死念慮になって出てくるのかもしれない。

事実以上のとても大きな問題の壁にぶち当たっている気がしてならないのは、単純に問題量が多すぎるからなのか。
それとも自分が何の詳細も得られていないのに「問題がある」と言われる事だけ共有され続けてきたからだろうか。

過剰な風聴は、実に簡単に人の気分を悪くさせ、問題解決に望めないという、不幸な種を多く運んできた。

そしてその風に当たったからには、その種を取り除こうと、なにか災害にあった隣人に対して、空回りな励ましや共感で場を乗り切ろうとするのに必死なのだ。

抑圧されていた頃に比べると、ソーシャルメディアの発展によって人は簡単に自身の苦悩を吐けるようになった。
苦悩に対する対処法をより多くに求められるようになった。

その代わりに人の意見に簡単に振り回される様になったのも事実である。

実際に有益な情報などはリテラシーを伴ってしか判別できないが故に、多くの誇張表現や意見の逆張りに翻弄される。

人の意見の多様性を尊重している。と言うと聞こえが良いが、選択できないという状況ではまた違う話で、要は本末転倒なのである。

人に頼る事を活かして、それでもなるべく悔いの残らないやり方を自分で望めるのがベストであろう。
最終判断はいずれ自分で下すのだから。


──────────────────────

昔、他人の立場を考えることと、その場限りの共感はイコールだと思っていた。

誰かが自分に辛い環境に置かれていることを打ち明ける度、「それは可哀想に」と思う人間だった。

そして、それは自分が変えるべきなんだと驕るのだった。

気持ちに間違いはないが、行動は違っていた。のかもしれない。
自分と照らし合わせで考えてきたから、実体的な確証がない。

立場を考えるというのは、過去を見聞きし、今に至るまでを分析するという事。人の視点に立つ。その人の状況を自分の中で再生する。


彼らは話を聞いて欲しかっただけで、助けを求めたり、意見が欲しかったり、解決を望んでいたわけじゃなかった事。
そして、自分は何もかも分かった気で、他人の問題を背負っていたつもりだった事。

それは単純なお人好しでもなく、むしろ自分の辛い立場の中から逃げる為にそうしていた。

他人の思考や感情を無闇矢鱈に押し量り同情することの無意味さのなんたることか。

他人の抱えた現実を捻じ曲げてでも変えようとすることのなんと愚かなことか。

もともと自分達はそれぞれ抱えた現実の問題処理で手一杯でしかない。

自分事を解決できるようになって初めて余裕ができ、他者に貢献できる機会を持つことができるのだ。

負積を抱えたままでは優しさはずっと続かない。

目前の現実も見えないしがらみも全て無視して、好きなこと、やりたいことにずっと打ち込み続ける事さえも、
抱えているものから逃げる事になってしまう。

──────────────────


下書きのまま数ヶ月が経った。

今も私は過去の怒りを何か正当性のある理由付きで、発散したくて仕方ない。

周りからの評価と自分の内面評価の格差があるのは、自分がそれだけ仮面を被って何も無いように振る舞ってきたからだ。

私の内にある怒りを認めなければならない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?