どうして自分は如何に不確定な存在であると信じてしまったのか
どうして自分は存在していると言えるのか

私がこの身体を指して「私」と認識させるのは簡単なのに、本懐ではそうではない事を感じている。
名前、性別、生まれた地
職業、肩書き、他者からの評判
全てが私を取り巻く要素でありながら、そのどれもを私ではないと「それ」が否定する。

「それ」は私が何をするかを否定しない。肯定しない。ただ在るが儘を見つめているような素体だった。

上に挙げたものは、実際のところ付け替え可能なタグであり、
また私たらしめるものとして外に表されるものに過ぎなく、
そして、確定できる自己の一部ではなく、むしろ不確定なものに近い。

かといって、そのような評価を偽りと括り、本当を期待して求めた所で、かくも空虚な旅をするかのよう。
理由はまだ頭で説明できるかわからないが、心でそう思った。

少なくとも、この思索が現実逃避であるなら、私は現実を見る事を疎かにしているし、私の本当にも気づいていないことになる。

それは何物も見ていない。ではどうやって見れば良いのか。
過去からの思い出に耽り続けるでもなく、未来像に縋り求めるでもない。
なにか恐ろしいものを見つめることが現実への戻り方でもないが、戻る過程で見つめてしまうかもしれない。

新しくなろうとした。変われなかったし買われなかった。
価値がないのは当然で、私はこの国の何処で孤独に自分を慰める奇妙な成人だった。

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