外国に住んでみたら子どもの時の感覚が蘇ってきた

1年半前、韓国人の夫と結婚して、ことばも文化もよくわからない国にやって来た。それは、ある程度日本社会に適応して自立してる風に生きてきた30代半ばの女が、右も左もよく分からない子どもに戻ってしまったような感覚だった。

韓国語のアナウンスしか流れない地元のバスに乗ったり、韓国語で調べものをしたり、小さなこと一つ一つにエネルギーを使う。

外国で生きていくのは大変。頭ではわかっていたけど、それを身体感覚として理解した1年半だった。

妊婦で体調はずっと低空飛行だったし、テレワークで続けている日本の仕事もあったけど、このまま言葉ができなければ社会の底辺を彷徨うことになる気がして、韓国語教室にも通い始めた。
少しずつ行動範囲を広げていった。

スーパーで1人で買い物をする

地元の食堂でランチする

洋服屋さんで試着してみる

本当に子どものようにできることを少しずつ増やしていった。

子どもの時って、こうやって一つ一つできることを増やしていって、少しずつ生きることへの不安感を消していってたような気がする。
その感覚が、この歳になって再び蘇ってくるなんて、ある意味面白い。

できることが増えるたびに、「この国で生きていけるかもしれない」という言葉の輪郭がぼんやり見え始めた。

当たり前だけど、旅行者としてある国に一瞬浸ってみるのと、生活者として地に足をつけてみるのとでは、見えてくる世界、自分という存在の感じ方、すべてがちがってた。

そもそも旅行者と生活者では、目的が違う。生活者は、その国での恒久的な幸福を目指しているわけだけど、旅行者は非日常的な楽しみや刺激が目的だ。

生活者はその国の住人と同じ土俵で生きていかなくてはならないけど、旅行者はその国の社会ルールに染まる必要はない。

生活者として生きる上で、日本での日常の延長線上に、今の生活があると思っていると、不便に感じることが多い。

日本で積み上げてきたものや人間関係もない中で、さてどうやってこの国で楽しく生きていこうか。

とりあえず、小学校3年生くらいまでには成長したいぞ。




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