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キリル文字は読めないけれど

今日、投稿するかどうか、しばらく悩んでいた。

ここに書きとめることに意味があるのか、という疑問が頭の中を巡っていた。もう少し細かくいえば、部外者の私が書くことに意味があるのか、という疑問だった。

それでも、見ての通り、書きはじめてしまった。衝動にも似た心理状態である。

きょう、ロシアによるウクライナ侵攻が始まってから1年を迎えた。

振り返ってみれば、2014年のロシアのクリミア併合が序章になっているという見方もできるので、「侵攻」以前に「侵入」は始まっていたということもできるのかもしれない。これを「ロシアの暴挙だ」と批判することは容易であるし、私自身もロシアを擁護できる余地はないと考えているが、それをここで述べたところで、既に報じられ論じられたあらゆる意見の重ね書きになるだけなので、避けておく。その代わりに、今日ちょうど目にした光景を紹介することにしよう。

昼に、仕事で車を運転していたところ、大きな拡声器を付けた車が官庁街の路肩に停車していた。一般的に「偏っている」と見られる団体の街宣車である。例に漏れず大音声を上げていた。

「さあ、ゼレンスキー大統領を称えよう。みんなでウクライナに行こう」

その前後の内容は聞いていなかったため、どのような文脈であったかは分からない。ただ、おそらく「国を守る」というウクライナの姿に、彼らの保守的な思想が共鳴したものだろうと推測される。

愛国心とは何だろう。愛国心は、武装しなければ見えないのだろうか。戦地でなければ感じられないのだろうか。まだ私は「国を愛する」ということに実感を持てないのだが、それは平和主義国家にいるからなのか。……平和主義国家?

そんなことを考えながら運転していると、カーラジオは「反撃能力」に関する国会論議について報じていた。「反撃能力を持つことで、敵国の攻撃を抑止する」というのがその意義の説明らしい。時差7時間の地で戦火が広がる中、随分踏み込んだ話だと思う。戦争の惨状を現在進行形で見ていながら、それでもこの国が「力による平和」を目指すのはなぜなのだろう。威嚇は更なる威嚇を呼び、力はより大きな力を惹起する。もどかしい思いが胸に広がった。

「抱薪救火」という故事成語がある。書き下せば「薪を抱きて火を救う」。火を消そうとしても、手に持っているものが薪であれば、かえって火は広がる、ということだ。そんなこと、火を見るより明らかではないだろうか。

(文字数:1000字)

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