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詩作に関する思索

詩作ほど難しいものはない。個人的にはそう思っている。

したがって、私は学校の宿題で課されるようなことがない限り、詩を書いたことはない。自分で作詞作曲する時に私が起こす「詞」は決して「詩」のレベルではなく、単なる音数合わせの域を出ていないと思っているし、私が努力してもその境界線を越えられないことを知っている。率直に言って、詩は大の苦手である。


そんな私が書いた貴重な詩が、引越の準備をしている時に出てきた。まさに冒頭で書いた「学校の宿題で課され」た詩なのだ。しかも2編もである。片方は中学二年生の時の詩、もう片方は高校二年生の時の詩だった。赤面の限りであるが、皆さんに笑いを提供するために今回は恥を忍ぶことにしよう。

<中学二年生>
夏の日差しは 春の色
桜の木洩れ陽 葉の隙間
夏の夕暮れ 秋の風
静かな街角 飛ぶ枯葉
夏の満月 冬の波
仰ぐ扇に 雪を恋う
暦は十二 季節は四つ
その境界に 矢を放つ
夏の朝焼け 夏祭り
夏に見上げる 夏の空

この時から空を見上げていたらしい。嫌気が差すほど、こましゃくれた韻文である。


<高校二年生>
枯れ木を持って、青葉が眩しいと言いたい。
がれきを持って、明日が眩しいと言いたい。
街並を懐かしみ、涙を流せるひとでいたい。
津波を思い染み、涙を流せるひとでいたい。
自信を忘れずに、いつも前を向いていたい。
地震を忘れずに、いつも風を感じていたい。

間もなく終業式という高校一年の3月に、仙台で「あの地震」を被災した。それまで何とも思っていなかった地震に対して、初めて恐怖心を抱いた出来事だった。徐々に日常が戻りつつある生活の中でも、ずっと胸の内から離れぬ空しさ。そんな中で迎えた夏休み、宿題とされた詩としてこれを提出したのである。

詩としては駄作かもしれない。しかし、格好をつけて書いただけの中学二年生当時の詩と比べれば、三年間の知識的成長以上の精神的成長が裏に隠れた作品だと自負している。


そう考えるとむしろ、詩とは精神的成熟の先にあるものだとさえ思えてくる。そういえば「恋は人を詩人にする」とはしばしば聞く言葉だ。恋を通して人間の深みが増すことによって、心が豊かになるからこそのことなのだろう。


言葉の森は、そして心の海は、これからも私の前に奥深くあり続ける。その中を私はひとり進んでいくのだ。そんな終わりなきこれからの道のりの中で、心の中に思い描く自分だけの詩を磨き上げていきたい。

現実と夢の間――その境界に、矢を放つ。


(文字数:1000字)

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