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時の流れのホバリング

自分の文章に関することや、文章を綴る際のスタンスなどというものを公表することはどこかナンセンスだと思っている。しかし、少し勇み足になりつつあった私のエッセイの更新頻度を下げ、改めて「書く」ということについて自己反省的に見つめている現在の過程の中で、その通過点をここに記録しておこうと思い立った。


以前より読んで下さっている方は薄々お気づきかもしれないが、私の文章には空や風に関する描写や記述がしばしば現れる。特に、一通り書いた後で「人恋しい秋の風が吹いた」などのように締めくくりの言葉として使うことが比較的多いと思う。これは決して机上の表現ではなく、実際に風を感じたり空を仰いだりしていることを率直に書いているものである。私は自分の内面に向き合う時、かえってこの身を包む外界に対して敏感になるらしい。それは自分の立っている場所を確かめるためのようでもあり、大きな力の中にこの場所を紛らすためのようでもある。「ここにいる」ということの自信と不安が入り混じる。私の芯は、底のない沼に立てられた杭なのかもしれない。

また、漢字と仮名の使い方には細心の注意を払っている。一つの文章の中でも「人」と書いたり「ひと」と書いたりするのは、表記ゆれではなく意識的なものだ。また、私の文体はやや硬いと自認しており、見かけを和らげるために意図的にひらがなを多くしているという側面もある。読んでもらうことも書くことの目的の一つである以上、読みやすさには気を遣っているつもりだ。


一方で、ややもすれば読みにくい文章になりうる修辞法も好んで使っている。隠喩である。先ほどの「私の芯は、底のない沼に立てられた杭なのかもしれない」もその例だ。「底のない沼に立てられた杭のように、不安定な土台の上で傾いているにもかかわらず確固としてまっすぐ存在している、と自分だけが信じ込んでいるだけなのかもしれない」ではまどろっこしい。また、「底のない沼に立てられた杭」という比喩から想像するものを読者の方に委ねることで、世界に広がりをもたせたいという意図もある。直喩よりも包容力のある隠喩への挑戦を、どうか見守って頂ければと思う。


私が書くのはエッセイである。それを訳したとき、「随想」であってほしい。「随筆」よりも温かなニュアンスを感じさせるこの呼称。私の思いや考えが、温度を持ってあなたのもとに届くよう、これからも私は一つひとつ書き続けてゆきたい。


(文字数:1000字)

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