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ふと見上げれば空

空。これを何と読むか。

——塾講師のアルバイトをしていた時、ある話の流れの中で、ふと生徒にこんな質問をしたことがある。その場にはおそらく15人程度いたように記憶しているが、その全員が「そら」と答えた。小学生に聞いても、高校生に聞いても、同僚の講師に聞いても、初めは必ず「そら」と読む。非常に興味深い。いくつか読み方はあるにも関わらず、答えはただ一つと言って過言ではないだろう。単にそれが訓読みであるということよりも、“そら”が、それほど身近なものなのだと解した方がよいかもしれない、と彼らの回答を聞きながら思った。

しかし、逆から考えると疑問符が付く。“そら”は果たして本当に身近なのだろうか。触れることもできず、どこまで行っても辿り着くことさえできない。飛行機が飛んでいる場所は、地上から見れば“そら”だが、飛行機の窓から見れば更に頭上に“そら”がある。どこに行っても「ある」。だからこそ「ない」のだ。

理性的によく考えてみれば実体が「ない」ものが、下から見上げると「ある」ように思える。そんなものが、私たちの身の回りには多い。卑近な例で言えば、“おとな”である。自分を“こども”と認識している時には、“おとな”は大きく遠い存在に見えるものだ。しかし、“おとな“になった今、わが身を顧みるとあの頃の自分に対して肩身の狭い思いがする。これほど小さなそれぞれの「私」が、あの頃見上げた“おとな”の深みを備えていると思える人はどれほどいるだろうか。やさしかったおとな。こわかったおとな。中学生になって、少し近づいたように見えたおとな。境界線を一つひとつ越えながら、気づかぬうちに自分がその存在になっている。

そう考えてみると、夢や目標といったものも、同じことのように見えてくる。必死で追いかけるほど眩しく、追いつけないことを実感する度にその存在が強く心を刺激する。そして、いつの日か目指した高みに至った時、私たちはまたその上に目標を見出すのである。

さて、ここまで書いてくると、今更ながら“そら”に「空」の漢字があてられていることそれ自体に意義を感じてしまう。

空は空しい。何も届かない。何も返ってこない。

空は空ろだ。中身なんて何もない、ただの広がりだ。

空は空っぽだ。街を抜ける風も、どこかで誰かが投げ出した想いも、全てを吸い込んでは吹き流す。

空は空白だ。誰もに平等な色をしている。

空は私たちだ。

私たちは空ではない。

(文字数:1000字)

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