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薄汚れた街並と冷えきった指先と

職場の上司から双眼鏡を譲り受けた。誰かからのもらいものと聞いたが、以前から天体観測が好きだと話していた私にそのまま横流ししてくれたらしい。

辛いことや悲しいことがあった時には、決まって私は夜空を見上げる。静まりかえった街の中で、まるで自分一人が取り残されたような感覚を抱きながらも、寂しさは不思議と感じない。星を見ていると、気持ちが落ち着くことも多くある。

夏ごろから色々なことが重なって、眠りが浅い日々が続いている。そこで昨晩、上司からもらった双眼鏡を片手に、寝間着の上にコートを羽織ってベランダへ出てみることにした。冷たい風が頬を刺し、遠くで車の行き交う音が聞こえる。ぼんやりと頭の中に渦巻いていた眠気も醒めきって、私は双眼鏡を構えた。

隠しごとがあるかのようにやけに明るい東京の空といえども、よく見てみると星々は静かに、しかし確かに瞬いている。視野が天球を駆ければ、冬の星座が一つひとつ形をなしていく。そうして夢中になっていると、東の方から昇ってきている光の集まりに気がついた。プレセペ星団だ。その周囲を囲むように、控えめな星たちがかに座を描いていた。

視線を下げて、そのまま向こうの街を眺める。自宅からは見えるはずがないと思っていた東京湾岸の灯りが、近づくクリスマスを待ちわびるように煌めいていた。昨今の状況から考えれば、今年の人出は例年よりも大幅に少なくなるのだろう。永遠に続く銀河のような電飾の一つひとつの光が、どうかすべての人の心の中で温かく灯ればいい。

そんな薄汚れた街並を、冷えきった指先でなぞってゆく。その一つひとつの灯火に、人々の生活が溶け込んでいる。そう思うと、温かさの中に不意に寂しさを感じた。これまでとは違う世界で、これまで通りの生活をするふりをして誰もが暮らしている。そんな一年が、まもなく終わろうとしている。

残り2週間を切った2020年の世界を、夜風がそっとなでていく。それは、ひとの温かさを求めているようにも見えた。なぜが涙がにじんできて、焦って再び夜空に目を向けた。それでも星は穏やかだった。

――そういえば、かに座生まれだったっけ。不意に双眼鏡の中に浮かび上がったその人は、今ごろ遠い町で眠っていることだろう。

今週もお疲れさま。おやすみ。

君のことを書くのも、これが最後になるのかな。そんな気がするんだ。でも、いつまでも忘れられずに、また僕は星空を見上げてしまうんだろうな。

(文字数:1000字)

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