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Amplector, ergo sum

先日、あおさんの『抱きしめられるということ』という投稿を読んだ。簡潔でありながら温かに書かれており非常に読みやすいので、ぜひ皆さんにも読んでいただきたい。

個人的には、胸がぎゅっと締め付けられるような感覚を覚えた。切ないような、ほっとするような、何とも言えない気持ちだった。

それはおそらく、誰かを抱きしめたときの幸せと抱きしめられない寂しさ、そして抱きしめることの寂しさを、私が身をもって知っているからなのだろう。

気恥ずかしさという感情を忘れたふりをして敢えて明言するとすれば、私はあらゆる愛情表現の中で、最も抱擁という行為が好きだ。好きな人を前にすれば、いつまでも抱きあっていたい。その人の思いを胸で感じ、私の愛情をその人に差し出す。抱きしめ、抱きしめられるときの幸せは、お互いの中にある微かな不安や不確かさを委ねあって、二人だけの安心感を無言のうちに形作るという部分にある。その証拠に、抱きあっている時には静かに微笑み、他愛もない短い言葉を耳元で囁く程度で足りる。抱擁は、言葉よりも雄弁にお互いを通わせている。

そしてその幸せは、一度腕を解いてしまえば、またしばらく心に隙間が生まれるという寂しさの裏返しなのだろう。ひとに恋し、愛するということは、相手の心に自分の心を預け、自分の心に相手の心を受け入れる余白を持つということだと思う。愛しあう二人の心は、文字通り「二人の心」であって、独りでは成り立ちえない。抱きしめられない寂しさは、抱きしめたときに結実する「ひとつの心」を知ってしまったがために、独りでいるときの心が「一人分」ではなく「半分」であることに気づくためなのだ。

すなわち、抱きしめあうということは、ある意味においては不完全な自分を互いに見せあうことなのだと思えてくる。これほど温かな寂しさがあるだろうか。相手を求めている、という不足を真っ直ぐに表現し、自分を求められている、という充足感を確かに得る。普段の外見上の依存関係がどうであれ、互いの自立性がどうであれ、抱擁は二人を等しく裸にする。胸の鼓動は徐々に高まり、そして互いの呼吸を感じながら、シンクロする。

やがて愛し合う二人はキスをするのだろう。相手の呼吸をも自分のものにするかのように、自分の呼吸を相手に任せるかのように。その瞬間に、幸せは極致に達する。寂しさは二人の間に溶けてゆく。――誰も気づかない寂しさを、やはり引き連れながら。

(文字数:1000字)

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