讃州、自凝島、吉備〜古代出雲王国ゆかりの旅
四国〜淡路島〜岡山を巡ってきましたぁ〜!
今年の冬は全国的に豪雪の地域が多いため、比較的温暖な場所として、これまで訪れたことのなかった四国を訪ねることにしました。祖父方の本家が徳島県宍喰町らしいのですが、父親でさえ幼い頃に一度訪れたきりで、私自身はこれまで四国に上陸したことはありませんでした。先祖への積年の不義理を精算する旅になればと思い、四国〜淡路島〜岡山と瀬戸内を巡る旅に出ました。
先ず目指したのは香川県の金刀比羅宮。庶民が自分の領主の土地を離れて自由に旅などできなかった封建社会の江戸時代。例外的に特権階級である寺社への参拝だけはお上に許可されていたため、庶民にとっては「一生に一度は金毘羅さん」と言われるほど、こんぴら詣はお伊勢参りと並んで人気の観光スポットでした。祀られているご祭神は大物主神、つまり出雲大社のご祭神で国造りの神である大国主命のことです。「金毘羅」の語源は古代インドのサンスクリット語「クンビーラ(Kunbhira)」で、ガンジス川を司る女神ガンガーの乗り物であるワニ(インドガビアル)を神格化した龍蛇神のこと。
出雲地方より南の吉備国、そして讃岐を含む四国一帯は、北九州や北陸と併せて古代出雲広域連合王国の勢力範囲でした。インドにルーツを持つ出雲族がこの地にもたらした龍蛇神クンビーラを祀ったのが金比羅信仰の起源と言えます。金比羅大権現として国造りの大国主命が祀られている山の名前は「象頭山」と言いますが、出雲族のサイノカミ信仰で鼻の高いサルタ彦は、象を神格化したヒンズー教のガネーシャ神の本地垂迹。この山にはサイノカミ信仰の聖山として太古より猿田彦大神が祀られていたのでしょう。日本に生息していないワニや象が日本古来の民話や地名や宗教に登場するのは、古代日本にインドから民族の移住があったことの傍証の一つです。
金刀比羅宮御本宮へのお詣りは、旅館で借りた竹杖を片手に、まるで斜面に沿った蛇か龍のように長い石段を785段目まで昇ります。途中365段目の大門をくぐると5つの白い傘の下でこんぴらさん土産の定番「加美代飴」を売る五人百姓のお店がありました。加美代、つまり神代より伝わる神事にまつわるこの飴は、金刀比羅宮で代々五人百姓という神事芸能に携わっていた五家の家筋が、特別に境内での販売を許された柚子風味のべっこう飴。神代の時代より現代に至るまで、その土地の権力者や支配層にとっては、多くの民衆に影響力を及ぼし多額の奉納金(税金)を稼ぐ祭祀(芸能界)は特権階級なのです。
普段の趣味の登山では、山道に木材で組まれた階段を登るのが苦手で、脚を無理に上げず自分の歩幅で登れる自然の斜面の山道を好んで歩くのですが、ここ金比羅さんではひたすら規則的な石段を登らなければならないので大変です。628段目まで昇ると左手に「旭社」が現れます。旭社という名前はいかにも三輪山の朝日遥拝を拠り所としていた出雲族由来のような名称ですが、お詣りの順番としてはその先785段目の「御本宮」に先ず参拝し(さらに上を目指すなら1,368段目の「奥社」をお詣りして)そのあとに旭社を詣でるのが正規のルートだそう。旭社のすぐ手前の階段に「右側通行」とあるので右側を進むと旭社を通過するまで左側がロープで区切られており、間違ってお詣りせずに真っ直ぐ進めるようになっていました。
旭社を通過するとほどなく御本宮に到着。参拝を済ませて、金比羅さんの「金のお守り」や御朱印を頂いたあとは、展望台から眼下に広がる綺麗な円錐形の讃岐富士や瀬戸大橋を眺めてホッと一息。そのあとは気合いを入れ直して展望台奥の石段を昇り1,368段めの頂上に鎮座する奥社を目指します。流石に途中で脚が重くなりましたが、奥社の「厳魂神社(※)」は〝金比羅宮最大のパワースポット〟と言われます。ここでしか手に入らない古代出雲のサイノカミ信仰にも繋がる猿田彦大神の「天狗のお守り」へのモチベーションが背中を押してくれました。帰りには出雲族の太陽信仰に因む「旭社」にも忘れずにお詣りして無事に下山しました。
古代史に想いを馳せながら、金刀比羅宮で大国主命と猿田彦大神に先祖への積年の不義理のお詫びを済ませたその夜、宿のバルコニーから象頭山を臨む夜空をふと見上げると、雲の晴れ間からオリオン座を挟んで私の大好きなおおいぬ座一等星のシリウスと、牡牛座散開星団プレアデスが綺麗に姿を現してくれました゚・:,。☆
2日目は国産みの夫婦神である伊弉諾尊と伊奘冉命が海をかき混ぜてできた〝日本発祥の島〟と言われるオノコロ島(淡路島)に上陸。淡路島はまだ明石海峡大橋のなかった幼少の頃にフェリーで両親に連れられ一度訪れているのですが、アルバムに貼られたセピア色の写真で見た記憶しかありません。今回の淡路島ではクルーズ船「日本丸」に乗り込んで、一度見てみたかった「鳴門のうず潮」を楽しみます。想像していたより大きく立派な日本丸で、出雲ゆかりの物部一族の祖、徐福の名を冠した「福良」の港から、うず潮のメッカ大鳴門橋の麓まで往復約1時間のクルーズに出航しました。
鳴門のうず潮は、淡路島の南の太平洋(紀伊水道)で起こる満潮が、淡路島で堰き止められて大阪湾を迂回して明石海峡を通って瀬戸内海東部(播磨灘)に流れ込むことで生じる時間差によって起こります。こうして播磨灘が満潮になる頃には紀伊水道は干潮になるため、瀬戸内海の大量の海水が鳴門海峡に一気に流れ込み、その高低差からうず潮が発生するのです。瀬戸内海周辺の海で活躍した出雲ゆかりの熊野水軍や安宅水軍などは、この干潮満潮の時刻を把握して自然現象のうず潮を巧みに利用したからこそ、瀬戸内海の制海権を独占できたのでしょう。
うず潮クルーズを満喫したあとは〝日本発祥〟「おのころ島神社」を参拝しました。ご祭神は古事記の神話で天沼矛で海をかき混ぜて日本を作った伊弉諾尊と伊奘冉命。そのモデルは古事記よりも古い古代サイノカミ信仰の国産みの夫婦神である久那斗大神と幸姫命。久那斗大神はインドのクナ国から古代出雲にやって来た大王。皇子の猿田彦大神と合わせた三柱が、古事記における天御中主神(久那斗大神)、神皇産霊神(幸姫命)、高皇産霊神(猿田彦大神)の「造化の三神」のモデル。そして、海を掻き回してオノコロ島が生まれたという「天沼矛伝説」は、ヒンズー教の天地創造神話「乳海攪拌」そのもの。日本神話の神々は仏教伝来よりもはるか太古のインド由来だったのです。
おのころ島神社に到着し、これまで見て来たどこの神社の鳥居よりも圧倒的に大きな朱塗りの鳥居に気圧されながら本殿へ向かいます。階段を登るとすぐ右手に、紅白の綱が伸びる「セキレイ石」がありました。妊娠や出産が命懸けだった太古の時代の信仰では、男女の契りは神聖なものとして大切に崇められました。男性器の象徴としての石を女性性と男性性の象徴の紅白の綱で結ぶおめでたいこの石は、男女和合を大切にしてきた太古のサイノカミ信仰を彷彿とさせます。本殿の右手奥のお社には、かつて夫婦松として境内にあった女松と男松が、左右に並んで横たえられ「御神木」として今も祀られています。
3日目は淡路島を後にし吉備国(岡山)へ入りました。吉備国は出雲王国の末期に、のちにヤマト政権を築く徐福族が筑紫国を出立し宮崎(都万王国)経由で出雲に侵攻(神武東征のモデル)してきた「第二次出雲戦争」の舞台。戦勝国のヤマト政権の武勇伝は、敗戦国の鬼である出雲勢力を退治した〝吉備団子〟のヒーロー「桃太郎伝説」として現代に語り継がれています。そんな「日本昔ばなし」の舞台吉備国の倉敷美観地区はかねてより訪ねてみたかった場所でした。戦時中の空襲を免れた天領倉敷には江戸時代の美しい街並みが今も残ります。近くの阿智神社のご祭神は、偶然にも自宅近くの氏神さまと同じ出雲所縁の宗像三女神でした。
ちなみにこの神社には久那斗神、伊弉諾尊、伊奘冉命ら国産みの神々、大国主命や素戔嗚尊ら出雲所縁の神々たち「十九柱」が合祀されていました。おそらくこの19の神々が太古の神無月に出雲大社に集まり、境内の「十九社」に泊まり込みで出雲連合王国繁栄のための縁結び会議(豪族間の政略婚姻取り決め)を開いていたのでしょう。かねてより倉敷に惹かれていたのも、きっと大国主命や素戔嗚尊や宗像三女神といった出雲所縁の神々に呼ばれていたせいかもしれません…
40年近く勤めた会社の定年という節目を迎え、今回は15年以上ぶりのファミリーサービス旅行でした。会社からの定年記念旅行券を贅沢に使用して、長年苦労をかけっ放しだったパートナーへのささやかな労い旅行のつもりでしたが、私にとっても行く先々で思いもかけずさまざまな出雲ゆかりの神々に見守られた、充実した瀬戸内巡りになりました゚・:,。☆
雨模様の日本丸のデッキで合羽を着て悴む手で撮影した鳴門のうず潮
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