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真説・日本古代史〜地球寒冷化と民族の栄枯盛衰

【紀元前22世紀(メガラヤン初期)】世界人口2500万人/日本縄文後期25万人
紀元前2200年、地質年代のメガラヤン期(インドのメガラヤ州に由来)初期の地球は、厳しい寒冷化と乾燥に見舞われます。世界各地の民族は温暖な居住地を求めて移動を始めました。争いを好まない母系社会インダス文明のドラヴィダ族は、戦闘地域を避けながら新天地を求め「大陸東の海にある住民の少ない温暖な島」へ辿りつきました。

ドラヴィダ族はインドからベンガル地方のインディカ米(陸稲)、生糸産業や機織り、土木技師や製鉄技術(野ダタラ)などの文化(=衣食住)を縄文人にもたらしました。彼らの言語である南インドのタミル語独特の5、7、5の節回しは、日本語の和歌や俳句に近く、畑(=パタケ)、田んぼ(=ダンバル)、米(=クマイ)など、特に稲作に関する言葉に日本語と多くの共通点が見られます。

国立遺伝学研究所の斉藤成也教授の研究では、この時期の日本列島に大陸から異なるDNAを持つ民族グループが青森〜山陰地方まで広がったことが分かっています。縄文人たちは稲作、生糸、土木(=衣食住)という〝恵み〟をもたらす異民族たちを〝神〟と慕い感謝(古神道)を表しました。大陸の常緑樹の国から移住してきたドラヴィダ族たちは、新緑芽吹く「出芽(いずめ)の国」の〝出雲族〟になりました。

【紀元前8-7世紀(ホーマー極小期)】世界人口7500万人/日本弥生初期8万人
二千年以上時は下り、BC800年期に入ると太陽活動が「ホーマー(ホメロス)極小期」と呼ばれる停滞期に入り、地球は再び寒冷化します。中東でアッシリア帝国がイスラエル王国を滅し、大規模な民族ディアスポラ(離散)が起きます。中央アジアのフン族はゲルマン民族を圧迫。大陸西ではローマ人がケルト人を迫害し、ギリシア初の国際戦争が起きるのもこの時期です。

BC771年、大陸東で巨大な西周が滅びると春秋戦国の戦乱の世になります。これに伴う移民は日本列島にも波及し、弥生時代の民族大移動となりました。縄文末期に8万人だった日本の人口は弥生中期には10万人を超え、末期には一気に60万人まで拡大します。西日本で顕著なこの人口増加は、単なる稲作の普及による自然増だけでなく、大陸からの断続的な移民によるコミュニティの拡大と考えられます。

BC660年、出雲族たちは族長「菅之八耳(人の話を八つの耳でよく聴いたことから)」を中心にインダス由来の、争いが少なく平和な「出雲王国」を建国しました。二代目以降は「西出雲」と「東出雲」から交互に大王(=大国主)と副王(=事代主)を出し、法と秩序で統治しました(大国主=官職名)。母系社会の王国は政治を取り仕切る国王たる「男神」と、祭祀を司る姫巫女である「女神」がペアで国を治めました。

そもそも王国(国家)とは何でしょう。洋の東西を問わず「文化(衣食住)と知識(言葉)と神事(芸能)」という〝恵み(=御恩)〟を授ける者がいつの時代も「神(鎮守・守)、大王、帝」と崇められます。そして、民たちは「労働と年貢(納税)と生贄」という〝信仰心(=奉公)〟で応えます。王と民をつなぐのが神官(巫女)による祭祀(徴税)です。日本で初めてこのシステムを完成させたのが西日本の中心「出雲王国」でした。

【紀元前4世紀(ギリシア極小期)】世界人口1.6億人/日本弥生中期10万人
BC400年に入ると太陽活動は再び衰退し(ギリシア極小期)、地球は100年続く寒冷期に入ります。西ではアテネとスパルタが衝突し、中央アジア屈指の騎馬民族・匈奴が版図を拡げ、そして東で秦の始皇帝が初めて中国全土を統一します。始皇帝のブレーン徐福は、中東の帝国アッシリアの捕囚で離散したイスラエルの流浪の民レビ族のような祭祀を司る神官でした(ヤコブ→ヨセフ→Joseph→徐福)

BC218年、徐福は3000人の民族を引連れ石見国(島根県)に上陸。出雲に最新の製鉄技法や土木技術、生糸産業をもたらし出雲王族の妃を娶ります[火明命・素戔嗚尊伝説]。一族は秦から渡来したので「秦氏(ハタ→ハダ→ヤハダ→ユダ=ユダ族)」と呼ばれました。徐福は出雲王国の転覆を図り大王(大国主)と副王(事代主)を殺しますがクーデターは失敗[国譲り神話①]。徐福の息子の五十猛(天野香語山)は丹波国に逃れ、徐福は秦へ帰国しました。

BC210年、中国を統一した秦帝国が一代で滅ぶと徐福は新たに2000人を従えて再び倭国を目指します。今回は北九州筑紫国に上陸、出雲王族の外戚を娶り「物部王国」を建国します[饒速日命伝説]。さらに丹波に逃れた息子の天野香語山(五十猛)とも結び、生まれた王子(海野村雲→天野氏・海部氏)が「大和王国」を建国しました。西日本に「出雲王国」「物部王国」「大和王国」の三国時代が訪れます。

インダス由来の母系社会「出雲王国」と、徐福由来の家父長制度の「物部王国」「大和王国」との決定的な違いが徐福の授けた鐡器兵器でした。インダス由来の出雲王国は「感謝(恵み)と祈り(信仰)」で神無月に八百万の神々(豪族)を集める共和制でしたが、ヒッタイト由来で中央アジアを席巻した騎馬民族の軍事力を誇る物部王国と大和王国は「武力」で従える君主制でした。

出雲王国が石器〜青銅時代のインダス由来で、黒曜石の矢尻程度の武器しか持たず、恵みをもたらす神(自然)と共生するネットワーク型社会だったのに対し、物部・大和の両王国はヒッタイト由来の鉄器という万能兵器を持つ神(人間)を崇めた、権威主義の縦型社会でした。出雲族は災害という脅威を時に与える自然という神を敬いましたが、大和族は武力という脅威を常に与える王という神に従いました。

【紀元2世紀(古代後期小氷期)】世界人口1.8億人/日本弥生晩期50万人
紀元後200年間にわたり東アジア一帯を襲った寒冷化で倭国を飢饉が襲います[倭人大いに餓ゑ食を求める者千余人]。AD150年、韓半島の新羅の王子[天之日矛]が出雲へ侵攻し、魏志倭人伝の「倭国大乱」が始まります。インダス由来で争いの少ない出雲王国は、戦に長けた騎馬民族譲りの徐福の武力を頼り大和王国に援軍を要請します。

ところが大和王国はすぐに派兵せず静観したため、出雲王国は物部王国と連携しました。西出雲は大和王国との血縁の証である徐福由来の銅鐸を放棄(埋納)し、物部製の銅矛を王家の証としました。東出雲も銅鐸鋳造をやめ、銅矛に似た銅剣を王家の紋章にします。これを知った大和王国は新羅軍(天之日矛)を追放し出雲領播磨国を占拠、更に出雲領吉備を陥落させ遂に出雲王国に侵攻しました[桃太郎伝説]

【紀元2世紀(古代後期小氷期)】世界人口1.8億人/日本弥生晩期50万人
AD165年、物部王国は八咫烏(太田タネヒコ)の力を借り、出雲侵攻で手薄になった大和王国に侵入します[神武東征①]その結果、AD175年に大和勢力(塞の神・銅鐸)と物部勢力(道教・鏡)のあいだで宗教戦争が勃発します。結果、出雲系姫巫女を擁する大和王国が姫巫女を持たない物部勢力に勝り、ここに平和裡に「倭国大乱」は治りました[畿内卑弥呼説]

【紀元3世紀(古代後期寒冷期)】世界人口1.9億人/日本弥生晩期60万人
AD232年、物部(徐福一族)は先の宗教戦争の反省を踏まえ、豊国の宇佐の姫巫女(月読命)と連合し[浦島太郎伝説]大和王国に対抗。さらに新しい姫巫女の正当性を魏の公認に求めます。招聘した魏の使者に九州の自国を大和と偽り[至女王国萬二千餘里]姫巫女は金印を授かります[九州卑弥呼説]。魏の権威の御旗を掲げた物部・豊連合軍は出雲を滅ぼし[国譲り神話②]大和も陥落させました[神武東征②]

【紀元4-5世紀(古代後期小氷期)】世界人口2億人/日本古墳時代150万人
「古代後期小氷期」と呼ばれる寒冷化で、西はゲルマン民族(西ゴート族)の侵攻で西ローマ帝国が滅亡。東は五胡十六国の戦乱から騎馬民族の北魏が覇権を拡大。韓半島では高句麗、百済、新羅が割拠します。機動力と弓矢の破壊力を有するフン族や匈奴など遊牧騎馬民族の軍事力は飛躍的に向上し世界を席巻します。この時期の地球寒冷化に伴う軍事の台頭が古代を終わらせ中世の暗黒へと導くのです。

動乱の大陸から逃れるように、この時期日本へも移民の波が押し寄せます。ユダヤ紋章の三日月にちなむ「弓月国」から徐福以来の大規模な秦一族(弓月之君)が渡来するのもこの頃です。斎藤成也教授のDNA解析でも紀元300年前後の異民族流入が特に顕著です。弥生時代末期に60万人だった人口は次の古墳時代の300年で3倍近くの150万人まで膨張しました。

【紀元7-8世紀(中世極小期)】世界人口2億人/日本飛鳥-奈良時代500万人
中国では唐で政変が起こります。唐王朝の外戚から初の女帝として君臨した則天武后は〝中国史上初めて〟天皇の称号を用います。これと呼応するように日本では乙巳の変(大化の改新)、白村江の戦い、壬申の乱と、クーデター、海外派兵、古代史上最大の内乱が続発。〝日本史上初めて〟天皇の称号を使ったのが、則天武后と同時代の天武天皇というのは何かの偶然でしょうか。いえ、天武天皇は則天武后の皇子という説があるほど当時の大陸や半島と列島の王族は玉石混交していたのです。

【紀元11世紀-15世紀(オールト〜ウォルフ〜シュンペラー極小期)】世界人口3億人/日本平安末期-鎌倉-室町800万人
この期間は短い3つの極小期が断続的に訪れます。斉藤教授の遺伝子研究ではこの時期にも移民の流入が認められます。大陸を席巻した騎馬民族と同調するように、日本でも源平合戦、蒙古襲来、南北朝時代、応仁の乱、戦国時代と続きます。太古より男神(政治)と女神(宗教)が一体だった神様(天皇)主体の貴族社会から、武士(政権)と神仏(寺社)が分離する武家社会へと転換します。

これまで見てきたように、古代〜中世にこの惑星で起きた多くの戦乱や王朝の盛衰は、太陽活動の衰退による地球寒冷化と密接に関連していました。世界各地のさまざまな民族紛争や戦争は、単なる人間のエゴや覇権主義からでなく、争いを好まないインダス文明のドラヴィダ族や、温厚な縄文出雲族たちのように、地球環境の変化に翻弄されたことによる苦渋の選択だったようです。

後の世の奈良の都の官僚が日本書紀に「皇紀2600年」と記した万世一系の悠久の歴史は、西の果てインダス由来の菅之八耳を祖とする皇紀元年(BC660年)紀元の「出雲王国」の歴史に、徐福の太陽神とユダヤ祭祀に護られた「大和王国」の歴史と、饒速日命(徐福)の月の女神と騎馬の兵力に守られた「物部王国」の歴史が三つ巴に繰り広げられた、日本版「三国志」のような激動の民族興亡史と言えます。

現在の私たちに受け継がれた日本の歴史は、インド由来の自然信仰と先祖崇拝(出雲王朝)、始皇帝の王権とユダヤの祭祀(大和政権)、そしてモンゴル騎馬民族の軍事力(武家政権)という、実は個性豊かで多様性溢れる民族たちによって織り上げられた壮大なタペストリーと言えるかもしれません…

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