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【僕の細道】~僕ちゃんの半生記~黒田 勇吾


  ①【序に換えて】

父が、シベリア抑留から生還して、舞鶴港に着いたのは昭和22年の
夏ごろ(1947年7月頃)だったようだ。
舞鶴港とは、あの「岸壁の母」の歌で有名な港。京都府の日本海側の港である。明治期から太平洋戦争終結まで、日本海軍の軍港の要所として使われた
悲しみの出会いと別れが滲んでいる大きな魚港である。
太平洋戦争が終結して、満州やロシアのシベリア抑留者のほとんどは
命があった方々は、船路でこの舞鶴港に帰還している。


正確な日付や、季節でさえ、正しかったかどうかは今は確かめようがない。
そんな若き日の父の日本への帰還。
父は生前、太平洋戦争の話については、多くを語らなかった。子供6人がいたため一生懸命働きづくめの日々だったから過去を振り返る余裕などなくひたすら子供たちを育てるために必死だったのだろう。
つまりゆっくりと子供たちと昔話を語らうという時間さえ惜しんで、子供たちを育てるために、一生懸命働いていたというのが僕が幼少期の頃の実情であったように想像する。
また一面で言えば、楽しいことを話すことは容易く、悲しき過去の出来事や悲劇を語ることが如何に困難なことか、今になって父の心情が少しはわかるのである。

父が亡くなって、今年(2024年)で8年になる。93歳の一庶民の偉大な生涯。
寿命という宿命を転換して勝ち越えて、生きて生きて生き抜いて、何十年も寿命を伸ばして生き続けた父に感謝は尽きない。
僕は父と母の生い立ちや若き日の生き様を語ることから、この自分自身の半生記を語り始めたい。
なぜなら両親の若き日の苦闘の末の結婚という出発点があって、私をはじめとする兄弟姉妹6人の人生は始まったのだから。

はじめに父の事を語り、そして続いて母のことを語り、どのようにして両親が出会い、結婚して第二の人生を出発していったかを語ってから、私自身の半生記を綴っていこうと思う。

ひとつだけ読者諸氏にお伝えすることがあるとすれば、この「還暦のメロス」という記録は、東北地方のある典型的な貧乏大家族が、いかに苦闘しつつ、和楽の家庭を築いていったかの記録でもある。
そこでは生き方や生活の詳細や、宗教観、人生観などを事実に基づいて語られるであろう。
そうした話も語っていく予定ですので、読者諸氏の考え方や人生観、宗教観などとはまた違った側面もかなり語っていくことになるだろう。
そうしたことも語っていくことに興味を持たれ、了とする方のみ、この記録のページを紐解いていってほしいと思います。そうしたことにご興味のない方は、はじめから読み進まないほうがよろしいかと思う。










仙石線石巻駅の入り口 2015年の頃



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