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【初愛】~君に捧ぐいのちの物語~⑤ 黒田勇吾

前回の最後の部分で、「追悼の歌水平線を越えて」の動画を紹介しました。「初愛」の物語の中では、春べぇが初めて創った歌として紹介されているのですが、実際に作者は、2011年12月から2012年1月の後半の約2か月間をかけてこの歌を創作しました。追悼歌の初めての創作でした。

作者を=(私)として、ここではその経緯を紹介します。

私は2011年10月末をもって、それまで働いていた会社を退職しました。様々な理由がありますが、身体を壊し、そして心も壊れそうな時期でした。
これ以上、ここで働けば、追い込まれている自分がどうなるか自分でも見通せないほどに、心は崩れかけていました。

のちに私は鬱病を1年以上、経験しますが、その兆候はこの時にありました。2011年3月1日より、1年以上かかってようやく就活が実り、大企業の仙台支社に就職ができたのです。就職するときに、この会社で定年までしっかり働いて、家庭の経済状況を安定させて、苦労を掛けた妻や子供たちに、少しでもゆったりとした暮らしをしてもらいたいという、当たり前な想いから就職をしたのに辞めるのか、という忸怩たる思いがありました。

東日本大震災が発災したのは、就職して10日目でした。2011年3月11日2時46分からの人生の激変を、被災地の皆さんは、だれも予想していなかったと思います。
私は、あの3分の揺れで、命の底に沈んでいた「前に進む力」と、「人に寄り添う優しさ」を呼び覚まされました。それまでそんなに人にやさしくなかった自分。
途中で投げ出すことの多かった諦めの心。
そうしたものが揺さぶられて、化学変化を起こして、別物の命になったんです。これは体験した人しかわからないことかもしれません。

震災時に会社で研修をしていた自分は、発災して揺れが収まった後、
事務方に自宅(内陸地域)に帰ります、と言って車で帰りました。
会社があった地域は、その45分後から津波が押し寄せて、3m強の
高さまで水かさを増した。たくさんの人が逃げ遅れ、渋滞に巻き込まれ
亡くなられた。
会社の先輩の一人は、家族全員を失った。そういう方がたくさんいらっしゃる一番被害が大きかった石巻市。

行方不明の方々も葬儀をしなければならない苦悩。誰に聴いても必ず親戚、家族、親しい友人を失っていた。

そんな話が当たり前の被災地で、給料はそこそこいただいていたが、この仕事は命と向き合わなければならないものだった。
つまり、生命保険を扱う仕事でした。
仕事は営業をしっかりして、数年後にはマネージャー(昔の言葉で言ったら営業所長)へと昇格していくはずだった。
しかし、営業で伺う方々の多くは、病死による生命保険の話ではなく、津波死による、保険金の支払いの手続きが、かなり多かった。
保険会社によっては、天災その他の災害による死亡には、保険金を支払わない保険会社もあっただろう。わが社は基本的に、津波被害やその二次的な要因による死亡に対しては、保険金を支払うという対応であったから、かなりの保険金支払いにおいて、津波による死亡、または傷害の話が、多かった。
そのたびに、フラッシュバックしてくる、発災時のあの揺れの体験。

やがて、そうした仕事をすることに、なぜか罪悪感に苛まれて、心がしんどくなっていった。この罪悪感という曲者は始末が悪い。被災して生き残った人は、ほとんどこの攻め立てられるような罪悪感に押しつぶされることが多かった。
あの友人は亡くなったのに、自分が生きているということに対する引け目。申し訳ない想い。そして、あの方は家族を亡くされたのだから、自分はこれくらいの辛さは我慢するべきだ、という心のせめぎ合い。
私は家族がたまたま全員無事だった。はっきり言おう。あの頃は、守られて無事だったなどとは口が裂けても言えない状況だったし、実際そんな思いは全くなかった。たまたま無事だったに過ぎない。
そうして自分を責めていた被災者が,なんと多かったことだろう。

そして、私はやがて身体の変調をきたし、心も塞ぎがちの毎日が続き、やはりこの仕事は続けられない、と追い込まれていった。今この時点でも、あの頃のことを思い出してしまうと心は重くなり、切なくなり、言葉が出なくなる。

           ~⑤ー2へ続く~

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