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高校野球

暑い。とにかく暑い  2022 夏。

夏と言えば、海、スイカ、氷菓子、高校野球。
こんな暑い時期に、あんな摺鉢状の球場で一時間余り球を投げたり、打ったり、走ったりするなんて今となっては狂気の沙汰としか思えないが、それができていた時代が僕にもあった。若いとは本当に素晴らしいものだ。

最近、見かけた記事がある。高校野球に関する記事だ。某地方大会決勝でかなりの大差で勝利したA高が対戦相手のB高に配慮して「喜ぶのをやめた」という記事だった。SNSではそのA高校の配慮を素晴らしいとする投稿が散見された。某著名人もその行動を絶賛していたというニュースも見かけた。

しかし僕は、このエピソードについて、素晴らしいとは思えないし、絶賛する気にもなれない。寧ろ何かが胸に引っかかっているような、気持ち悪さを感じずにはいられない。

スポーツというものは、必ず勝敗がつく。必ず敗者が生まれるという残酷さを常に内包している。大差であっても、僅差であっても、その残酷さは変わらないし、それが「勝負」をするという事だと思う。だからこそスポーツには清廉潔白な正々堂々とした態度が求められるのだと思う。

勝ちたいから努力する。負けたく無いから鍛錬に勤しみ、コンディションを整える。しかし、どんなに努力しても負けてしまう事はある。どんなにコンディションを調整してもベストな状態にならないこともある。そういう理不尽さも内包している。そういう要素も全て含めてスポーツだと僕は思う。それらを受け入れてそれを自らの責任として試合にのぞむ。だからこそスポーツは人を育てるし、人間性が磨かれていくのだと思う。

勝負の世界は非情だ。A高に大差をつけられて負けたB高は某感染症の影響で主力の殆どを欠く戦いを強いられたそうだ。そういう状況の中でも最後まで戦い抜いたB高は本当に素晴らしいと思う。決してベストとは言えない、ベストとは程遠い状態だったと思う。逃げ出したい気持ちになったかもしれない。しかし、彼らはその状況と向き合い、受け入れて、その中で勝てる可能性を模索し、勝つ為の最善を尽くしたと思う。ただやはり理不尽さへの悔しさは払拭できないと思う。もちろんベストな状態だからと言って勝てるとは限らない。ベストな状態でも負けていたかもしれない。それでも、ベストな状態ならもしかしたら勝てたかもしれないという思いは、これからも心の片隅に持ち続けるのだろうと思う。

その状況に配慮して喜ぶ事をやめたA高。一見素晴らしい行動のように見える。しかし、大差で打ちのめしたのはA高だ。それは勝負の世界では仕方ない事だし、大差で打ちのめす事が悪い事では無いと思う。ただ非情な世界にいて、非情な事をしておいて、最後の最後に相手を可哀想と思うのは僕は違うと思う。自分達が大差で打ちのめしておいて、配慮も糞も無いし、それを素晴らしいとする人たちの心情もそれを美談として報じるメディアも僕には理解できない。

B高も恐らくそういう結果になる可能性を考慮して、覚悟して試合に臨んでいる。その意気込みに情けを掛ける必要は全くない。寧ろ情けを掛ける方が失礼であると思う。

スポーツは非情さを内包していて、それは仕方ない事なのだから、たとえ自分達が有利な状況だと思えたとしても、恥ずべきところ無く、正々堂々と戦ったのなら、後ろめたさを感じる必要はないし、その後ろめたさを相手を可哀想と思う事で埋めようとするのも違う。そういう人は勝敗がハッキリつく世界には向いてない。

そして何より、そういう配慮を選手たちにさせるような状況を作った指導者も僕はどうかと思う。どんな状況であろうと、選手たちが試合に集中できる環境を作るのが指導者の役割だと思う。ましてや高校野球。成人年齢が18歳に引き下げられたとは言え、まだまだ未熟な彼らにそういうところまで背負わせてしまう大人は果たして監督責任を果たしていると言えるのだろうか?選手の自主性に任せていると言われれば聞こえはいいが、自分の取るべき責任を選手に押し付けそれを正当化しているという受け取り方もできる。

とかく、このケースにおいては、大人が悪役になってでも、選手たちに高校野球を純粋に味わえる配慮がされるべきだったと思う。

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