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放送大学大学院博士後期課程:1期生の立場から(7)芸術学と政治学

博士後期課程に入学して、修士課程のときの指導教授に引き続き指導を仰ぐことになりました。放送大学では、主たる指導教授の他に、ふたりの副指導教授からも指導を受けるという3人指導体制となっています。私は、人文学プログラムに所属していたので、美学芸術学の指導教授に加え、同じプログラムに所属する国文学の教授と、社会経営学プログラムに所属する国際政治学の教授から副指導者として指導を受けることになりました。

私は副指導教授のおふたりにご挨拶してご相談し、国文学の教授には、研究の進捗状況を逐次ご報告することとし、国際政治学の教授には、毎月開かれるゼミナールに出席させて頂くことにしました。

国際政治学の教授は、コロンビア大学で修士号を取得した方ですが、スカッシュを大学のコートでしていたところ、入口が突然開き、当時教授をしていたエドワード・サイードが顔を出して、コートを間違えたことに気がついてすぐに去っていったことがあったそうです。

教授は中東研究が専門なので、報道番組などにも解説者として登場することが多い方でしたが、学生たちのそれぞれの研究領域は多彩で、学生同士の活発な議論は新鮮な知的刺激に満ちていました。時折、教授が最新の国際問題について発表してくださることもありました。イエメンにある日本大使館勤務の経験がある若い方が、当時のティーチング・アシスタントでした。放送大学大学院修士課程を出たあと、早稲田大学大学院博士課程に進んで博士論文に取り組んでいる人でした。

以前に、自分が所属する美学芸術学ゼミナールの学生たちが、語学に力を注いでいることを書きました。そこではイタリア語、フランス語、ドイツ語などでしたが、国際政治学のゼミナールにおいては、これがアラビア語、ペルシャ語、ロシア語、ウクライナ語などなのです。目が眩むような気がしました。このゼミナールでは、学部、修士、博士が合同だったので、人数が多く、卒業生のゲストもいて活気がありました。(その後、博士課程のゼミナールは、学部・修士と区別して別日程で行われるようになりました。)

国際政治学のゼミナールに出席して勉強するうちに、遠藤周作の代表作である「死海のほとり」が、韓国語以外には翻訳されていない事実に気がつきました。遠藤の代表作は、多くの言語で海外に紹介されているのです。
作者を思わせる、信仰の危機に陥ったカトリック作家が第三次中東戦争後のイスラエルを訪れて、イエスの足跡を辿るという作品です。よく読むと、現代イスラエルを舞台にした場面において、イスラエルとパレスチナ人たちとの非対称的な現実が描かれていることに気がつきました。

ノーベル文学賞を受賞する可能性もあった国際的作家でしたから、政治的なテクストとして読まれる可能性を忌避して英語にすら翻訳されなかったのだと私は考えました。論文「遠藤周作『死海のほとり』新考」は、こうして生まれたのでした。このような視点は、先行研究にはなかったのです。この論文の草稿には、教授が副指導教員として目を通してくださいました。

遠藤周作はフランスに留学した人ですが、彼の親友だった村松剛というフランス文学者は、アイヒマン裁判傍聴以後、イスラエル政府と強い結び付きを持つようになり、中東国際情勢に詳しい論客としてメディアでも活躍した人です。ところが、これまでの日本文学研究者で、中東世界に詳しい人はいなかったので、村松は国文学の世界で研究されてこなかったのでした。

私は現在、村松研究をしています。私の研究者としての独自性の一端は、このゼミに参加したことにあると思います。聴講のような立場なので、ゼミ生の発表を聞くばかりで自分の発表は遠慮していたのですが、促されて、村松剛の中東理解について、彼と同世代の日本中東学会会長(湾岸戦争当時)と対比させた発表をしたことがあります。教授からコメントをいただき、これは「村松剛と湾岸戦争」という論文になりました。

このゼミナールで、ウクライナについて研究していた方は、現地を訪れたときのようすをスライドで報告していましたが、公的な機関から統計的な情報を入手して、独自の手法で分析する試みに挑戦していました。
修士課程修了後、彼は学会の奨励賞を受け、日本国内の月刊総合雑誌にも寄稿し、最近では、修士論文を元にした英語論文を、3年かかって海外の学術誌に掲載しています。

語学が堪能で、アラビア語まで学んでいた女性は、医療関係の仕事をかつてしていたことから、国際テロ事件に伴う感染症被害の可能性や、アメリカ合衆国がテロ首謀者探索のために、現地でのワクチン接種という隠れ蓑を使ったことなど、独自の視点から国際政治学の領域に切り込む研究をしていました。彼女の口から出てくる言葉には、圧倒的な鋭さがありました。帝国医療という重要な概念について私が知ったのも、彼女が教えてくれたからです。

私が所属する美学芸術学ゼミナールの博士後期課程学生は、私一人だったので、修士課程のゼミナールがある日に、指導教授と面会して、個別に指導を受けました。放送大学非常勤職員として、修士課程のティーチング・アシスタントをしていたからです。自分の研究の進捗について報告し、投稿論文が活字になればご覧に入れます。博士課程学生は研究者なので、微に入り細に入りといった指導はありません。私は馬車馬のように猛進しているので、御者役の教授による方向調整がここで行われます。

これは1期生の特権だと思ったのは、副指導教授が所属する領域の研究法を履修しなければならないので、西洋政治哲学、日本政治思想史の各教授からも、個別に一対一で、それぞれ2日間の集中講義を受けられたことです。

西洋政治哲学専攻の教授は、LSE(ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス)で学位を取得した方で、オックスフォード大学大学院修士課程で教科書にする書物を使った講義でした。これは教授自身が日本語に翻訳したものです。現代の政治学者について、初めて知ることばかりで勉強になりました。ロールズの理論について、あれだけの支持があったのも、単に理論としての仕上がりがすばらしかったという単純な話ではなく、彼の人生経験の厚みが背後にあったからだということもよくわかりました。
この教授が、私が自分の研究を海外に発信することを強く勧めてくださったのでした。

日本政治思想史、とりわけ近代天皇制研究の第一人者である教授は、互いの自宅が近在だったこともあり、大学ではなく、ご自宅を訪問して講義を受けることになりました。村松剛は、イデオロギー的には右派であり、三島由紀夫とも親しかった人なので、指定された書物(アンダーソン『想像の共同体』や教授自身の天皇制研究など)はあったものの、私の博士論文に関係した村松に関する主題を中心に指導を受けることができたことは、ありがたいことでした。
このときの教授との対話から、フランス文学を専攻した村松が、ヨーロッパ的教養のフィルターを通して天皇制を見ており、東アジアの王権思想という視点は彼にはないという洞察を得ることができたのでした。

このように、博士後期課程の複数指導体制があったことで、私は政治学方面の基本文献についても知り、それらに触れることができたのです。アリー・シャリーアティーや、マーサ・ヌスバウムについて知ったのも、国際政治学のゼミナールを通してでした。

英国の大学でポストコロニアルスタディーズを専攻する学生には、政治学を専攻する教授からの指導があると、エセックス大学に留学した友人から聞いたことがあります。放送大学大学院博士後期課程は、日本国内にある通信制大学院のなかでは、ポストコロニアリズムを学ぶのに理想的な環境だったのかもしれません。
(続く)

*写真は、『インペリアル・レザー』の著者アン・マクリントックです。
 

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