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放送大学大学院博士後期課程:1期生の立場から(2)大学を活用した生涯学習

放送大学大学院で学んだのは、私が52歳から57歳までの5年間です。修士課程2年と博士後期課程3年です。

私は高等学校を卒業して二松學舍大学文学部中国文学科に進学しました。高等学校の国語教師になろうと考えていたので、國學院大學か二松學舍大学に行こうと思いました。当時たまたま存知上げていた、幸若舞を研究している大学教授から、日本文学を理解するためには漢文から勉強した方がいいし、貴志正造という中世説話文学のすばらしい教授がいると助言され、二松學舍に決めたのでした。好きな本ばかり読んで受験勉強をないがしろにしていたので、プレステージの高い、国公立や私立の難関大学に進学する学力はありませんでした。

学部を卒業した年に、神奈川県の教員採用試験に合格して、国語科教諭になりました。当時の神奈川県は、生徒急増に伴い、高等学校を数多く新設し、全教科合わせて700人程度の新卒教員を大量採用していました。どこの学校でも、20代の教員が多かったのです。

大学院に進学しなかった理由は三つありました。早く社会に出て思い切り働きたかったこと、父親が胃癌で倒れたこと、そして、大学院でさらに勉強するほどには、漢文の世界に愛着がないと自分でわかったことです。

その後、30代で慶應義塾大学文学部の通信課程に学士入学して卒業しました。専攻は哲学です。このように、20代、30代、そして50代にそれぞれ大学で学んだので、結果的に、高等教育機関を活用した生涯学習を、実践してきたといってよいと思います。

全ての教科がそうだと思いますが、若いときに学んだ知識だけで、国語科の教員として30年以上教え続けることは到底不可能です。そのために、さまざまな研修機会が設けられ、年度当初に義務づけられている年間個人計画の書式にも、自己研修について記載する欄が設けられているのでしょう。

二松學舍大学で所属した中国古代哲学のゼミナールでは、春秋左氏傳と尚書(書経)が主たるテクストでした。赤塚忠、宇野哲人、窪徳忠といった先生方に教わりました。訓点がないテクストの読解は大変でしたが、勉強になりました。その一方で、影印本を用いた日本古典に関する講義なども必履修だったので、古文漢文を教えることに不安はさほどありませんでした。最初の勤務校は全日制工業科高等学校だったので、教科指導よりも、生徒指導に多くのエネルギーを使う職場だったという事情もあります。

次の転任先が全日制普通科高等学校で、ほとんど全員が大学へ進学する学校だったので、教科指導に力を注ぐことになりました。そのときに私が直面したのは、評論文を扱うときに、西洋史、西洋思想史に関する自分の知識が、東洋史、東洋思想史に比べて貧弱であるという動かしがたい事実でした。

現在、高等学校の国語教科書に収録されている評論文は、比較文化論、異文化理解、近代批判、ジェンダーといった領域が多く、ミシェル・フーコー、ジュディス・バトラー、フィリップ・アリエスといった学者に言及する文章が多いのです。大手予備校による大学受験の模擬試験の問題には、テオドール・アドルノやマックス・ホルクハイマー、そしてアントニオ・ネグリまで登場するのです。そうした傾向は、近年、特に顕著です。教室でこのような評論文を扱う高等学校の教師が、登場する思想家たちの著作を直接読むことなしに、生徒に教えることが果たして可能でしょうか?

西洋の現代思想に、翻訳書を通じて親しんでいなかったわけではありませんが、それは所詮独学であり、系統だったものではありませんでした。また、私が痛感したのは、海外の思想家たちの知的淵源にあるプラトンもアリストテレスも、自分はしっかり読んだことがなかったことです。

できれば大学院で学びたいと思いました。しかし、賞与はなくなるものの、給与を得ながら現場を離れて内地留学で学べる大学院は、教育学研究科しかありませんでした。また、通信制大学院は、放送大学大学院修士課程を含めて、まだ文部省から設置を許可されていませんでした。通学制の大学院で学ぶためには、現在の神奈川県では、休職が認められていますが、当時はその制度がなく、退職するしかなかったのです。

考えた結果、私は慶應義塾大学の通信課程に学士入学することにしました。なぜ日本大学や法政大学、中央大学の通信課程でなかったのかというと、理由はふたつありました。ひとつは、独身時代に親しくした女性たちのなかに、慶應通信に学士入学して卒業した人がふたりいたからです。ひとりは鶴見大学を卒業後に慶應に入り、もうひとりは玉川大学を卒業後に慶應に入ったのでした。ちなみに女性同士は知り合いではありません。

それぞれの女性と親しかった時期は重なっておりませんが、一人目の女性に誘われて、三田の夏季スクーリングに潜り込んだことがあり、教授と学生双方の真剣さに胸を打たれたことがあったのです。
 
もう一つの理由は、48万冊の蔵書がある慶應義塾大学図書館(メディアセンター)に魅力を感じたからでした。私は湘南辻堂で育ちましたが、結婚してから横浜市内に居を構えました。夜までやっている日吉の図書館にはすぐ行けますし、ちょっと足を伸ばして三田の図書館を利用することもできます。在学生のみならず、卒業生も利用可能です。長い目で見たときに、慶應義塾の図書館を一生使えることはたいへんな財産だと算段したのです。

妻になった女性は大学教授の娘だったので、書物を買うことには理解がありましたが、溢れていく蔵書に、私自身が経済的空間的な危機感を覚え、横浜市立図書館の、各区ごとにある分館のそばに居住し、自分の蔵書で図書館にあるものは思い切って処分することにしました。ちなみに、41万冊という横浜市立図書館の蔵書数は、全国の地方自治体のなかで最多です。日常的には地域図書館を利用して、研究紀要や学会誌については、慶應義塾大学図書館を利用することにしたのです。

慶應義塾大学では、ウラジミール・ソロヴィヨフを専門にする先生から、卒業論文の指導を受けました。面接授業では、プロティノスを専門にする先生の「エンネアデス」を使った授業や、宗教多元主義で名高いジョン・ヒックの紹介者である先生から教わりました。「エンネアデス」の授業では、最初の時間に古典ギリシャ語の読み方を教わり、次の授業からは、いきなり指名されてパラグラフごとに音読させられて驚きました。指名された学生が、すらすらと読むことには、さらに驚きました。(この連載では、故人を除き、具体的なお名前は書かないことにします。)

学士入学なので、2年間で卒業できるのですが、働きながらであり、早く卒業しなければならない事情もなかったので、4年間かけて卒業しました。二松學舍の学士号は文学でしたが、慶應義塾では哲学でした。遠隔教育は孤独であり、入学は易しいが卒業は難しいといわれますが、勉強とは基本的に一人でするものであると考えていた私は、この感覚を長らく理解することができませんでした。大学をすでに一度卒業していたことも大きいと思います。

当時の慶應通信は、教科書が古く、最新の学説を学ぶには不充分と思われました。(とはいえ、松本正夫教授による西洋哲学史の教科書などは、今道友信教授が論文のなかで引用する水準を持っていました)。また、提出したレポートの返却までの期間が、科目によってまちまちで、1年以上経っても戻ってこないものがあり、これには本当に困りました。事務局に連絡して担当教授に督促してもらっても、戻ってこないのです。現在はおそらく改善されているでしょう。

慶應義塾大学を卒業した年に最初の本を出したのですが、それをきっかけに、文芸評論家でフランス文学者の甲南女子大学教授饗庭孝男先生の知遇を得て親炙しました。同じ横浜市内にお住まいで、毎週末に、私が毎日利用する駅に下り立ち、介護施設にご母堂を見舞うなど、地理的な近さもありましたが、あるとき、私の経歴を聞いて「兄貴と同じだ」といって顔を綻ばせたのです。

饗庭先生は双子の兄上が慶應義塾大学の通信課程で法学を学ばれ、司法試験に合格して弁護士として活躍した方だったのです。そのようなことから、さらに私に親しみを感じてくださったのかもしれません。多くの先生や先輩のお世話になりましたが、饗庭先生には、自分が愛されていると感じました。

このように、30代までにふたつの大学で学んだ私ですが、40代は年代的に責任が重くなり、多忙で、体を壊したこともあり、大学で学ぶことはありませんでした。その私が、放送大学大学院で学ぼうと考えたのは、東日本大震災と、東京電力福島第一原子力発電所の過酷事故(シビアアクシデント)がきっかけでした。
(続く) 

*写真は、公刊された博士論文に附載した英文サマリーです。

 

 

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