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放送大学大学院博士後期課程:1期生の立場から(10)文化庁長官官房文化政策室

ここで少し、本務である高等学校教師としての経歴と、そのかたわら細々と続けていた文筆活動について書いておくことにします。

最初の全日制工業科高等学校には3年いて、次に全日制普通科高等学校に11年いました。2校目は進学校で、心身を磨り減らすような環境ではなかったので、この時期に私は勉強することができました。とはいえ、20代の頃は、仕事が忙しく、また面白く、自分の未来について深く考えることもしなかったことから、計画的で系統的な勉強をしたわけではありませんでした。

30歳になる頃に、年配の先生方を眺めて、いくつかの生き方のスタイルがあることに気がつきました。
 ひとつは、部活動指導に熱情を傾ける生き方です。それから、教科指導に熱心で、教科書や参考書、問題集を執筆したりする生き方です。学校運営に情熱を傾け、管理職をめざす生き方もありました。そして最後に、学術的な研究を続ける生き方がありました。

自分は将来どのような方向に進むのがいいのだろうか、と私は自問しました。そして、最後の生き方がいいのではないかと思いました。私が古典を教わった先生が大学教授になったことは以前に書きましたが、国語科出身だった温和な校長も、定年退職後は信州大学教授になりました。

もっとも、私は大学院で学術論文を書く訓練を受けておりません。したがって、アカデミズムの世界ではなく、ジャーナリズムで評論を書くしかないと思いました。しかし、文芸誌の新人賞に挑戦する気概はありませんでした。神奈川県立高等学校の教諭だった方が、30歳のときに文芸誌の評論部門新人賞をとり、37歳で国立工業大学助教授に転身したのはこの頃のことですが、自分には知識も経験も不充分だとよくわかっていました。慶應義塾大学の通信課程に学士入学したのはこの頃のことです。

高等学校時代から戦後の日本キリスト教文学に親しんでいたことは、以前に書きました。学生時代に愛読した詩人に鷲巣繁男という人がいて、彼は横浜生まれのギリシア正教徒でした。私が学生時代に亡くなったのですが、この人の伝記を書こうと私は決めました。多くの関係者に取材しました。オーラルヒストリーという言葉すら私は知りませんでしたが、お手紙をさしあげて、詩人仲間や戦争中の関係者にお目にかかっては話を聴きました。

鷲巣は日中戦争で南京攻略作戦に参加していました。上官だった方から、上陸した上海の土がついた当時の地図を見ながら戦闘の実際について伺いました。私は生々しい歴史の傷口に触れていると感じました。私の父親は大正生まれですが、戦地には赴いていなかったのです。

話が少し脇にそれますが、広島に投下された原子爆弾について、私のなかでは長らく歴史の教科書のなかの一挿話以上のものではありませんでした。それが、いきなり私自身の問題になったのは、あるとき、広島出身の被爆二世の女性と親しい関係になったことがきっかけでした。歴史は、書物ではなく、いつでも生身の人間をとおしてやってきました。

話を戻します。知人から紹介された文芸評論家の金子昌夫さんが励ましてくださり、同人誌に手探りで書いていたところ、未知の文芸評論家川村二郎さんが、心のこもった葉書をくれました。

その後も細々と書き続けていたところ、学生時代に知遇を得たカトリック作家小川国夫さんと親しかった編集者が、ある日電話をくれて、原稿を見てくれるというのです。そのような幸運に恵まれて、私の最初の著書『評伝鷲巣繁男』は、私が38歳のときに刊行されました。ありがたいことに、朝日新聞、北海道新聞、神奈川新聞、信濃毎日新聞、日本海新聞、図書新聞、週刊朝日、現代詩手帖、三田文學、日本文学、かまくら春秋などに、書評が出ました。

白川静教授や、鈴木六林男さんなど、恵贈した方々が、丁寧な礼状をくださいました。それだけで私は報われたと思いました。白川教授からは、引用した漢詩の誤植を指摘されて赤面したのですが。

原稿用紙800枚ほど書いて、600枚に削ったと記憶しています。出版界は、現在ほどには困難な状況ではありませんでした。電算写植印刷に切り替わる時期でしたが、社主のこだわりで、活版印刷でした。組見本が出て、初稿が出て、どれだけ朱筆を入れてもいいといわれました。執筆に2年間、修正に2年間。このときの経験が、私にとっての、いわば「大学院」であり、編集者が、私の「指導教授」でした。

本が出た年、私は学校現場ではなく、霞ヶ関にある文部省で働いていました。文部省地方教育行政実務研修という名目で、神奈川県教育委員会から派遣されて、文化庁長官官房総務課文化政策室に所属して、官僚たちと仕事をしていたのです。科学技術庁と統合される前のことでしたが、人事交流は行われていて、審議官は科学技術庁から来た人でした。

文化政策室長は、東大法学部を卒業後に入省し、海外の大学院に留学、地方国立大学助教授を経て本庁に戻ってきた女性でした。その後、国際連合大学を経て国内の大学院大学教授になります。

彼女の仕事ぶりを見ながら、膨大な量の実務をこなしつつ、自分の研究を着実に進めていく合理的な姿勢を学びました。交渉の仕方、ドライな人物評価、今その状況で利用できる人的資源を活用する合理主義、アクシデントが起きても、手早く処置をした次の瞬間にはすぐに忘れてさっさと先に進む姿勢は天晴れでした。美術品に関する新法を作ったので、国会対応のために作った想定問答を、新法Q&Aという書籍にする手伝いをしたのですが、彼女がほとんど鼻歌交じりの軽快さで、ばさばさと原稿を捌いていくのは爽快でした。

コロンビア大学留学から戻った係長は、情のある人でした。早稲田大学修士課程を修了して入省した人でした。京都大学文学部哲学科を卒業して入省した係長は、体を壊して退官しました。退職の挨拶に来たときに、これからの身の振り方を問うと、大学院に戻るといっていました。学習院大学を卒業して入省した女性係長は、私がこれまで会った女性のなかで、最強の粘り強さを持つ人でした。その後、国立大学学長室、南米の日本大使館員などを歴任しています。

本庁の官僚たちは、いわゆるキャリア組もノンキャリア組も、総じて激務であり、立場上起案ができない私のような者ですら、タクシーで深更に帰宅ということがしばしばありました。私が霞ヶ関にいる時期に、向いにある郵政省(現在の総務省)では、官僚の飛び降りがありました。

学校現場の忙しさも相当なものですが、官僚たちの労働環境も負けず劣らずの酷さです。朝から晩まで机に貼り付いている。中井久夫さんがいう「こころの産毛」のような繊細さを後生大事にしてはいられない。鈍感にならなければ、猛烈なストレスに神経が持たない。省内に美貌の女性係長がいて、文部省の案内パンフレットに笑顔で登場していましたが、夜の食堂で、疲れ果てた老人のような表情で、ひとり遅い夕食をとっている姿を見て、何ともいえない気持ちになったこともあります。

私は起案者ではないので、責任がないだけ気楽でしたが、ユネスコ関係の英語の公文書が次々に回ってきたり、海外から電話がかかってくるのは、国語科の教員としては、嬉しいことではありませんでした。総務課なので、他局との連絡調整をするのですが、政府を代表して対応するのだから、この期日までにやってくれ、と厳粛な面持ちでいわれて当該課に依頼すると、政府を代表して回答するのだから、拙速には対応できないと返されます。双方の間に挟まれて、たいそう困りました。

私は国会議事堂内の国立国会図書館分室で、ひとり静かに法律の条文について調べものをするようなこともありましたが、衆参の議員会館に行ったり、大蔵省(財務省)に行ったりすることもありました。一から十まで慣れない仕事で疲れました。

大蔵省のキャリア官僚でも、若手のなかには、サンダル履きで愛想のいいアンチャンみたいな人がいて、官僚の世界もいろいろだと思いました。文部省と科学技術庁が統合されることで、課長のポストが半分になると真顔で心配する若いキャリア組もいました。

各党国会議員からの照会への対応方法や、各種審議会メンバー候補者の選び方、異動の谷間に作られる、名前だけ立派で実態なしの役職、内覧会に招待された世間名ある方の自己顕示、先住民アートを広間の壁に目立つように掛けた外国大使館など、どれもこれも私の驚きを誘わないものはありませんでした。

昼休みに省内の小さな図書室で「中央公論」に連載していた今道友信教授の自伝を読むのがささやかな歓びでした。夜の霞ヶ関駅のホームに、疲れ切ってぼんやり立っていると、ネズミの夫婦がちょろちょろと壁の穴から出てくることがあり、親しみを感じて思わず微笑むこともありました。今思えば、彼らは、生きて私に語りかける「バンクシーのねずみ」でした。

仕事へのコミットメントには並々ならぬものがあるものの、人間的には非常に冷たいところがあって、親しみを覚えることができない若手のキャリア官僚もいました。ところが、あるとき、その人がクラシック音楽の愛好者で、自身の音楽愛を、とめどなく語ることができることを知り、驚いたのでした。音楽を愛する繊細な感受性と、周囲の人間に対する冷酷さが、私のなかではどうしても結びつくことが困難だったからです。

もっとも、局長クラスでも、威張らずに下の者に接する穏やかな方もいましたから、どこの世界にでも、さまざまな人がいるということなのかもしれません。

ある日、文部大臣の秘書官から文化政策室に内線があり、私にすぐ来るようにとの指示がありました。文化庁は文部省の外局で、最上階にありました。大臣室は2階です。エレベーターで下りて赤絨毯が敷かれた廊下を大臣室まで行くと、秘書官に中に招き入れられました。大臣は、私をソファに座らせると、本をありがとう。ここまで読んだよ、といって、私が出版したばかりの最初の本を手にして微笑みました。

当時の文部大臣は、科学技術庁長官も兼務する理学博士でした。しかし、私が大臣の私邸に自著を郵送したのは、彼が大臣だからではなく、親炙していた小川国夫さんとも親しい文学者(俳人)だからでした。
 文化庁長官には、長官室でお渡ししました。彼はその後、東宮侍従長となります。ちなみに、当時の文部省政務次官は、現在は県知事をしている芸術家(俳優)出身の政治家でした。

文化庁文化政策室での1年間で、私は国家の文化政策というものの在り方について考えるようになりました。それは、フランスの文化政策、とりわけアンドレ・マルローへの関心を引き起こし、アジア太平洋戦争中の日本の対外的文化工作への関心も芽生えさせました。やがてポストコロニアルスタディーズに向かう転換点が、この時期の濃密な体験にあったように思います。

最後に書いておきたいことがあります。放送大学大学院博士後期課程1期生として一緒に学位を受けた国立大学理事が、私が文化庁長官官房に研修派遣されていた時期に、学術国際局学術政策室長として、同じ文部省内にいたことです。この方は私より少し年上ですが、慶應義塾大学を卒業後に文部省に入り、ノースウエスタン大学とハーバード大学でそれぞれ修士号を取得していました。キャリアも立場もかけ離れた彼と私とは、もしかすると、省内ですれ違ったことがあったのかもしれません。
(続く)

*写真は、数年前、霞ヶ関に行ったときに撮影した国会議事堂前のようすです。警察の大型車両が並んでいます。

 

 

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