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Tamen, te amo.

人を好きになるということには、それなりの根拠というものがなければならぬ、と思う。

それは何も身近な、例えば友人や恋人といった肩書きのもとに人を選別するときに限ることではない。芸能人のような、遠く離れていて直接に対面することの難しい相手に魅了されるときにも当てはまるであろうし、小説や漫画やアニメといったフィクションに登場するキャラクターにかんしても同じことであろう。誰しも自分なりに好ましく思う点というものがあって、それに適った人間を愛そうとする。それは容姿であったり、人柄であったり、言葉では言い表しがたい感覚なのであって、「よくわからないけれど何かが好きだ」というような、本能に限りなく近い直感であったとしても、それは立派な根拠たりえるであろう。
好みというのはつくづく不思議なものだ。世間一般的に「好ましい」とされる人間像には、ある程度の範型が存在するはずである。容姿が美しく、性格は穏やかで、他者には常に親切だが、鋭さを忍ばせたユーモアのセンスも過不足なく持ち合わせている。そのような人間が身近にいたとしたら、きっとわたしはその人物を好ましく思うだろうし、わたし以外の多くの人々にしても、少なくとも著しいマイナスの感情をこの人に対して抱くことはないであろう。しかし当たり前であろうが、世間一般、あるいは第三者的な視点での「好きである」ということと、「このわたし」が、ある人物を「好き」だと思うこと、このふたつの「好き」の間には、埋めがたい差異が存しているものなのだ。

ひとつの例として、容姿の話をしよう。
「人間は自分と似た顔の人間をより好ましく思うものだ」というのが、わたしがここ3年ほど唱え続けている仮説である。誰が見てもよく似ている、と思われるほどの程度から、目や輪郭のようなパーツの系統、ないしはそれらから受ける印象が似ている、というやや限定的な段階まで差はあれど、わたしがこれまで見てきたなかでは、ある人が「美しい」や「容姿が好き」だと評するのは、その人自身と似通う要素をもつ容姿を有する人であったように思われる。無論これを一般化するつもりは毛頭ないし、この論にあてはまらない事例も当然のようにあったわけだが、人が他者の容姿を目にした際に、「自分と似ているか、そうではないか」をひとつの観測要素としているということは、強ち外れてはいないのではないか、と思わされたのである。

そして、同様のことは、容姿以外の部分にかんしても当てはまるのでないだろうか。
人が人の人格に──より細分化するのならば性格に、感性に、趣味に、あるいは信念に──心惹かれるとき、その情がどんな種類のものであったとしても、自己とその人がどれだけ相通じあうことができるかという点を、ひとつの指標としていたことはなかったか。他者を眩しく感じるのは、自身とその人とを比して、自身よりも優れた点を見出すからではなかっただろうか。

このように考えるとすると、自身とはまるで逆、正反対の人間を好ましく思う心は、いかにして説明されるのか、という問題も生ずるであろう。しかしこれもまた、その本質はそう大きく乖離するものではないように思われてならない。
自己と真逆の人というのは、自己のうちにはないものを有する人なのであり、自己のうちにないものとは即ち、自己の欠落点である。「あらぬ」がゆえに強烈にその可能的存在を自己へと刻み込む、その欠落を通じて、人は他者のうちに自己を見出すのではないか。他者との交わりのなかに自己の影を求めたことが、かつてただの一度でもなかっただろうか。

わたしと他者が、完全に重なり合うことなどありえない。どれほど容姿や性格が似ていようとも、どれほど身近な存在であろうとも、その全てを汲み尽くすことができる日など永遠に来ないであろう。それでも、否、だからこそ、人はその容貌で、言葉で、振る舞いで自らを懸命に表現するのであるし、時に極めて些細な所作にすら重大な意味を見出そうとするものだ。そうした他者への意味付けにおいて、尚自己の影を滲ませる人の眼差しこそが、業と呼ばれるべきものなのかもしれない、という随想に耽る、ある夜。

それが業であるとすれば、業に最も囚われているのは、こんなことを書かずにはいられない自己自身である、という指摘は、既に手遅れである。



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