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指導?伴走? 説得?納得?

エドカフェNo.22 本質観取「伴走する大人とは」

★苫野一徳さんを迎えての神回です!(毎回神回だけど)

よい伴走者とは?〜指導との違い〜

指導は一瞬で暴力に変わる。
じゃあずっと寄り添ってたらいいの?
危ない時引っ張って先導しちゃいけないの?

先生は子どもを指導するのがあたりまえってみんな思っている。
この場合「子ども」って十把一絡げ。
指導する側が正しい。される側が間違っている。
指導者が主語になる。

指導するのが先生だから指導力を上げよ!ということがまだまだ現場の足元にある。「子どもを主語に」と言いながら、ここには逃げようのないヒエラルキーが存在している。

「指導してはいけない」「子どもの横で伴走しなきゃならない」という発想もまだまだ子どもを十把一絡げにした発想。

学級単位で考えたら、1人の先生が20人の子どもの伴走者になれますか?


参加者の声に泰子さんの喝と称賛!

「すみません」と言って発言しようとする先生に
「許可はいらないから勝手に喋り!」と泰子さん。
「私ますます意地悪婆さんになる・・・」とか笑いながら・・・

「先生に許可をもらわなきゃしゃべれないという授業の体質を捨ててかなきゃ!少なくともエドカフェは・・・
これ、ずっと受けてきた学校文化の後遺症。
まさにずーっと受けてきた『指導』の結果!
捨てて!」

そして、その先生はこんな思いを打ち明けてくれた。

「伴走というと個に対するイメージだけど、どうしても集団を導かなきゃという思いがある。泰子さんの言葉に出会ってカルチャーショック!自分がどこに向かっていけばいいか悩む。」

「そのことばからめっちゃ学べる!」と泰子さん。

全国の子どもたちの事実は、自殺いじめ不登校過去最多。

「集団をなんとかしなきゃ!」という学級担任という制度がある限り、先生たちみんなそこに縛られる。それは子どもたちにとって苦しい環境。それがある限り伴走者なんて綺麗事に終わるのでは?
そう考えたら制度もみなおさなきゃいけない。でも制度は変わらないから今まで通り・・・みたいな・・・まあ制度変わったら早いけど・・・そんな柔軟な学校体制とれるところ少ないから・・・

そう考えたら集団を導くという意味あるやろか?

集団への伴走 〜泰子さんのエピソード〜

大空小に家の事情でお風呂に入れない子がいた。
暑いときクーラーのきいた閉め切った教室でその子の匂いが充満した。

「おまえくさい!出ていけや〜!」とある子が言った。
泰子さんもその教室へ入ると
「あかん!これはめちゃくちゃくさい!」と言った。

泰子さんは子どもたちに聞いた。
「くさいって直接言った子手上げてみ。」
手をあげたのは3人。そこに泰子さん入れて4人。
「直接ではないけど、くさいと言った子?」・・・全員。

泰子さんは本人に言った。
「みんな臭いって言ってるよ。」

すると、ある子が「風呂入り!」と言ったので、「風呂入れるか?」と聞くと「無理」との答え。「なんでやねん?」「壊れてる。」「じゃあ風呂屋いけば?」「無理」「なんで無理やねん?」

ここで泰子さんのつっこみが入り対話が発展。
「お風呂屋行くのにお金いるんとちゃう?」「うん、◯百円」
「◯百円家に置いてあるか?」「ない。」

そこで誰かが言う。
「おまえ毎日同じ服着てるから洗濯したら?」

泰子さんの問いかけで、それぞれの子がその子と自分の違いを知ることからだんだんつながっていく。

「洗濯ってさ、あんたら誰が洗濯する?」「おうちの人」「◯◯はお母さんは朝早くから遅くまで働いてて洗濯までできないから、自分しかやる人いない。」

そんな対話をするうち、「出ていけ」って言った子が
「それやったら、頭と顔と足の裏、学校に来てから洗ったら?」と提案。
すると、いつも「ほっといてくれ〜」って言うその子はとても自然に「わかった」と言った。

「じゃあ校長室にせっけん用意しといてあげる。じゃあね。」とだけ泰子さん。

次の日、いつも遅れてくるその子は学校に早くきた。
友達が何人か付き合ってくれた。
「まだちょっと臭い。」
「見してみ!」
「プンプン」(匂いかいでやる)
「お、いけるいける!」

あとからその子が言った言葉
「あのとき、おれはおれのまま安心して学校にいていいって初めて思った。」


こういうのが集団の伴走者としての働きなのでは?

指導者として「くさいなんていってはいけません!相手の気持ち考えなさい!」といった指導をしていたら?

本人を守るだけでなくすべての子が自分で気づいて育つこと。

伴走によって共に育とうとする。共に生きようとする。

「心をひとつに」ってできる?

こんなことを言ってきた子がいた。
「自分の心ここ。相手の心そっち。どうやってひとつにするん?!」

先生たち今まで当たり前に使ってきた言葉。改めてみんなで話した。
「あ〜それは幻想の世界でしたね。」

でもそれを捨てるんじゃなくて、やめるんじゃなくて、負荷を与えたい。

「じゃあそれぞれでいいよ!」「それぞれ別々に自分の学びをすればいいよ」って、それいいとは思わない。
個別最適化で・・・って・・・個別最適化はもちろん大事。
でもそれは手段。

他者といっしょに誰もが生きやすい社会をつくるっていうのが目的。

ツールは対話。
対話が成立すれば、みんな違うこと言うのを聞き合いながら
「なんでそう思うの?」「え〜そうなの?」「そんなのいややわ。」とか言い合う中で、みんなの言葉を机の上に置いていけば、何かの言葉が生まれてくる。
心をひとつにしなくても目的は決まってくる。
30人が他者とつながり合って生み出した言葉。

先生が主語?子どもが主語?

30人のそれぞれあちこち向いた矢印をひとつに向けられるのがいい先生って言われてこなかった?
これは子どもを説得する力。
子どもは説得されて矢印の方向を変える。
これは先生が主語。

子どもが主語にというのは子どもが納得すること。

説得されて行動するのと納得して行動するので10年後変わるやろ?

100年前にも同じことが・・・

ここで一徳さんの解説

「子どもを主語に!」は、100年以上前にもデューイが言っていたこと。

それまでの教育は
教えるものが、子どもと関係ないところにあって、それを子どもに注入する教育。これは大人側が主語。

デューイの「子ども中心主義」説
子どもが真ん中にあり、そのまわりに先生、教材、カリキュラムがあり、子どもの生活経験の中に取り入れられていく教育。これは子どもが主語。

これを世界中に広めていったときにも、
「それは子どものやりたい放題を認める放任だ。」と大きく誤解された。

世の人は強制か放任かの二項対立で考えてしまう。そういうことじゃない!

共に生きていくためにどうすればいいかを対話を通していっしょに見出していくことが大事。


伴走には対話が不可欠

対話を通してみんながよりよく生きるために伴走する。
対話ということばの中に相手を尊重する意味も入っている。
そうでなきゃ命令とか指導とかになる。
対話には「あなたはどう思っているのか聴かせてほしい」という意味が入っている。
ここは伴走者として欠かせないところ。

伴走しよう伴走しようでなく、対話を通して聴こう聴こうとする姿勢

「どう伴走したらいい?」と子ども抜きでいくら考えてもそれは先生が主語になってしまう。

この子に教えてもらおうって思うだけでいい。


教室もエドカフェに!

エドカフェって、とにかく楽しい!
これが教室だったら学びって本当に楽しい!
みんなの言葉を聞く中で、自分の中から新しい言葉がどんどん出てくる。

子どもたちにとっても、こうして自分たちで対話して答えをみつけていく学びは楽しい!!




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