休みの日は、雨がいい。
2021年2月、関東などいくつかの都道府県では、緊急事態宣言が延長された。宣言延長が発出されてから、はじめての週末を迎えた午後、関東の外はとても晴れていた。外出を控えるステイホームな生活が定着してから1年ほどが経って、外出自粛も日常的になってきたと思う。僕らは毎週末願うことがある、「週末は雨がいい」。
外出自粛が呼びかけられる前の土日は、比較的外に出かけることが多かったと思う。休日をむかえるたびに、家に面している道路では、遊ぶ子ども...だけではなくて、家族が、それも複数の家族が、入り乱れて遊ぶさまが毎週繰り広げられているからだ。いわゆる道路族問題。そこから目を背けたかったから、僕らはできるだけ外出するようにしていた。
外出自粛が日常的になってくると、目の前で繰り広げられている道路族問題は、我が家の頭痛のタネになってきた。道路で遊ぶだけであれば百歩譲ってもいいのだけれど(そもそも、道路は遊び場ではないのだけれど)、子どもたちの保護者がまるで様子を見ていないことが気になってきた。4歳ほどの子どもたちが3〜4人で遊んでいるのだけれど、自転車乗りを自由にさせているものだから、敷地内に止めている車にぶつかるんじゃないか、とか、親が目を放した隙に、植えてある植物で遊び始めるのではないかといった、様々な心配が出てきてしまい落ち着くことができなかった。4歳ほどの子どもたちが、そもそも我が家の何かがきっかけとなって怪我をしてしまったら、近所トラブルになってしまうのではないか、という心配。自分自身がその舞台の主人公になっているわけではないのに、心配ごとが多くなるという状態であった。
その車に乗って、公園に行ってほしいのに
僕らの住む街には、比較的大きな公園がある。走り回るには十分な広さで、たくさんの緑や芝生、多くの遊具もある関東屈指の公園がある。舗装されたコースもあるので自転車で遊ぶ事もできる。大きな公園だから、ピクニック気分で一日を過ごすこともできる。我が家の長男や次男が小さい頃は、よくお弁当などを持って出かけて過ごすこともあった。自粛が進んだ今なら、ちょっと運動するのにもいい具合だろう。僕らの住んでいる地域から大きな公園までの距離は2キロくらいの場所にあるし、もう少し小規模な公園だって数百メートルのところにある、立地としても十分すぎるくらいであった。
その家族たちのどの家も、自家用車を持っている。いつも僕らは「なぜ公園に行かないのだろう?」と思うことがある。包み隠さず言うなら「公園でにぎやかにしているなら理解できる。」なんだけれど。自家用車のサイズ感からは、幼児用の自転車は十分に積めると思う。それでも、道路で遊んでいる。
ある家族は、夫婦が途中交代して子どもの外遊びに長時間付き合っている、ということが分かった。その日は、外遊びが開始されたと思われた時間に、僕らは偶然買い物から帰ってきたところだったので、出くわしてしまったのだ。その家族には4歳ほどの娘さんがいるのだけれど、道路遊びの開始直後は父親と遊んでいるようだった。父親は節分の時(その週の前半が節分だった)に使ったであろうオニのお面をかぶりながら、子どもを追いかけ回していて、14時ごろから遊び始めていたようだった。僕らは少し遅いお昼ごはんを、外のにぎやかな声を聞きながら食べて、食後には「(庭にすら出たくないので)ゲームでもしようか」と、テレビゲームをした。掃き出し窓から見えてくる左右に走る姿が視界に入りながら午後を過ごした。17時ごろには、父親の姿はなく、母親に代わっていた。娘さんは、その時間でも元気そうに声を(キャーキャー)上げているのが聞こえた。今日に限らず、外遊びは17時過ぎまで聞こえていることが多い。冬場は日暮れが早いとはいえ、日が暮れてからでも外にいることもある。道路での外遊びを日暮れまで十分に堪能しているようだった。それほど長く外で遊ぶのなら「もっと環境の良いところで遊ぶ、というのも選択肢なのにな」と心の中でつぶやいた。
道路は遊び場ではない
ここまでのエピソードは、僕らの家の前で起きている本当のことだ。読者の皆さんの中には「車通りもほとんどない道路なら、遊んだっていいじゃない」「遊ぶところがないのだから少しくらいは許してあげてよ」「子どもが小さくて遠くに行けないし」とお考えの方もいるかもしれない。もちろん、気持ちが理解できないわけではない。僕自身も、かつては子どもが小さいときに外で遊ばせたいなと思うこともあったし、今もなお小さい子供を持つ親の立場であるから、気持ちも理解できる。だけど前述したような意見には、反対の意見も存在すると思うし、お互いが歩み寄る形で物事を考えられないといけないのかもしれない。物理で言えば"作用・反作用"があるように、どちらか一方の意見があれば、反対の意見も存在するものなのだ。その中で、お互いが心地よい位置を目指していくことが、「思いやり」ということになるのだろう。
もしかすると、もっと小さい乳幼児がいる家も近くにあるかもしれないし、夜勤として働いていて昼間は睡眠を取りたい人が近所にいるかもしれない。そんな日常の生活環境の中でお互いが配慮できる状態、政治や法律(僕は政治家でも法律の専門家でもないけれど、ジョージ・オーウェルのような世界観は望んでいない)では干渉しづらい「思いやり」というものが、変化の激しいVUCAな時代において、とても大切になってくるのではないかと考えている。とにかく「道路では遊ばない」こと。
休みの日は、雨がいい
この問題を解決したいけど、解決する勇気もない。鬱々とする晴れた日より、雨の日のほうが残念ながら落ち着く。雨の日は、外の様子や気配を考えなくていいからだ。「週末の天気はどうなるのだろうか」と、平日は、週間天気予報の内容が気になってしまう。晴れの予報だったり、
「朝のうちは雨ですが、徐々に晴れ間が広がってくるでしょう」
なんて予報が聞こえてくると、とても残念な気持ちになってしまうのだ。
この文章を書いている今日は、とても晴れていた。結果は...というと、期待通りだった。...やはり、まだ、雨の日を待ち望んでいる。
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