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スマホ依存

朝起きたら、スマホの画面が液状化していた。
昨日の夜、SNSを見ながら寝落ちしたらしい。とっくに真っ黒になった画面は、目が覚めると水銀のようにベッドの上に零れ落ちていたのだ。

仕事をバックレて、数日経過している。店長からの鬼電でも来るかと思ったが、俺の存在そのものはそれほど重要なものではなかったらしい。
そんな存在であったとしても、貯金する程度には給料をくれていたのだからバックレてもありがたいとも思っていたりする。

何もかもが嫌になる。そんなことは誰にでもあるはずだろう。それでもみんなは我慢する。でも俺はそんな我慢をしてまで働くこと自体が苦痛で仕方ない。だから、実行してしまうのだ。
バックレ、その場での退職、問題をわざと起こしてクビになったこともある。30過ぎにもなってそんなことしているろくでなしはまともな死に方をきっとしないだろう。

正直なところ、何もかもがよくなっていた。スマホの画面までとうとう液状化してしまったのだから、もう仕事だって見つけられない。今時仕事を見つけるのだって、この小さな板切れが頼みの綱ともいえるのだから。

何気なく、スマホに指を突っ込んでみる。どろどろとした触感が指に絡みつく。片栗粉を入れた水に手を突っ込んだような感触に何とも言えない心地よさと気持ち悪さを覚えた。不思議なことに、俺の掌にいつも収まっているはずのスマホの画面は少しずつ手首や腕を飲み込んでいった。
くせになるような感覚がダメだとわかっていてもつい突っ込んでしまう。やめられない麻薬を使う人はきっとこんな感覚になっているに違いない。

思った刹那あっという間にスマホは俺の体を飲み込んだ。何が起きたかわからないまま、爽やかな風に顔を撫でられる。目を覚ませばそこは、青空の下に小川が流れる草原が広がっていた。遠くには昔写真で見たような風車が回っている。さっきまで俺はおんぼろの6畳一間の日本のアパートにいたはずではなかったか。

軽いめまいと気持ち悪さに無理やり慣れ、辺りを見渡すと魚が空を飛んでいた。群れで泳いでいるような無数の魚たちは、俺の存在を無視するかのように泳ぎ回っている。普通、魚は空を飛ばないだろう。しかしここはスマホの中という、もっとあり得ないことが自分に降りかかっていることを考えれば、そんなことはあってもおかしくはないんだと思う。この魚はなんというのかと思って検索しようにも、それだって不可能なのだ。

いつも手に持っていなければ違和感さえあるものが、今手元にないのは落ち着かなかった。スマホの中でさえなければきっと俺は、すぐに地図を開いて確認するだろう。少しずつ魚が四角く変化する。丸みを帯びた吹き出しのようなものがヒレと頭をつけて漂っているが、その中にはやはり、吹き出しよろしく文字が無数に並んでいる。0と1の無限の繰り返しでしかないそれは何かのコードなのは理解できる。しかし、何を表しているかまでは俺には理解できないものだった。

風が強くなりだした。辺りはあっという間に真っ暗になったかと思うと、突然土砂降りの雨と強風が吹き荒れだす。さえぎるものは何もなく、ずぶ濡れの状態で風車まで行こうと思ったものの、みるみる増水していく小川の水は俺の足を濡らしていく。
どこかに建物はないだろうか。もしかしたら見えないだけで近くに何かあるかもしれない。ついポケットを探るものの、そこには何も入っていない。この行動の意味は何なのだろうか。スマホの中であることを俺はあっという間に忘れてしまったということか。誰にも連絡も取れず、助けを呼ぶことさえ俺にはできない。このスマホの世界には誰にもいないのではないだろうか。

ふと、先ほどまで泳いでいた魚の吹き出しの一匹が俺の顔を横切る。0と1の組み合わせだった列が、とある罵倒の羅列であったことが読めるようになっていた。他の魚たちにも目を向ける。小川の水の増水というのはこんなにも激しいのか、既に俺のひざ下まで水は来ていた。それでも魚たちにくぎ付けになってしまう。
罵詈雑言、誹謗中傷、意味不明な批判の文章…どれもこれも目を覆いたくなるようなものばかりでしかない。勿論それだけではなく、たった一文字しかない無意味な吹き出しもある。

風はいよいよ強くなり、遠くの風車の羽根は「バキッ」という鈍い音とともに折れてしまった。遠くだと思っていた風車は巨大なだけだったのか、それとも風の強さの凄まじさなのか、俺の顔に破片がぶつかってくる。あんなにも美しかった光景はあっという間に地獄絵図と化していたのだった。

一刻も早く脱出しなければ小川の水に流されてしまいそうだ。視界が風雨によって塞がれながらも、天を仰ぐと穴が開いていて、そこからは見覚えのある天井がうすぼんやりと見えている。助けを求めようにも、いったい誰に求めようというのか。俺は独身一人暮らしだったし、声をあげたところで気づいてもらえる可能性は皆無だろう。


SNSに助けを……



どうやって?



大体、俺はSNSだってまともに使ってこなかったじゃないか。さっきの吹き出しの魚に表示されていた、刺さるような言葉は、俺が顔も知らない誰かにぶつけたものだった。反論も批判も俺から広がった炎上だって、屁でもないと思いながら繰り返していた。画面の向こうの見えない相手はいつだって、俺よりも成功者で俺の敵。
今、SNSに助けを求めたところで俺に手を差し伸べる奴はきっと皆無だろう。大体こんなところ、どうやって助けるんだろうか。
無意味な文字の塊たちを並べ立て、それでも俺は世の中と繋がっていると思ってた。

小川は水位を上げて濁流となった。足を取られ転びかける。

怖い。死にたくない。誰か助けて……

水の勢いに足が取られた。無意識に見えている天井に手を伸ばす。

誰もいないことをわかっていながら。

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