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不発する家出
扉の前で息を殺した。
彼女は気づいているだろうか。もう私と二度と会えなくなるということを。呼吸が荒くなるのを確認し、深く息をつくともうすぐ3月というのに白く濁っている。
あのクローゼットの中は段ボール一つだけになっていて、そんなことにも気づいていない彼女の鈍感さに、初めて感謝した。
少しずつ動き始めた駅の構内にあるカフェで、味気のないコーヒーを飲んでいると男が声をかけてきて、私が持っている手帳の中の一片と交換にあのチケットをくれる。とても重要な仕事の話、だけど誰にも言ってはいけないらしい。スマホの充電はとっくに切れていて、改めて電源をボタンを押しても真っ黒な板のままだった。
私は失策を犯したのかもしれない。
男は言ったのだ。
「朝7時にここに来る」と。
スマホの充電をなくしておくのもこのカフェで待ち合わせを提案したのも、私ではあるけれど。ぼんやりと店の外を眺めていても人は1人も通らない。偶然なのかもしれないし、普段からこんな調子の人の流れなのだろうか。よくこんな場所で商売なんてしているなどと、余計なお世話とも取れるような心配をついしてしまう。
店の中には店長らしき男性と女性が一人。店員だって人間ではあるけれど、今までほかの店に入ってこれほどまでに店員を『人間』としてみたことはなかったと思う。そうでもしないと、世界中にたった一人でコーヒーを飲む何かになってしまいそうで仕方なかった。
もしかしたら、とっくにあの男は来てしまっているのではないだろうか。時間がわからないことが、私にとってこれほどまでに苦痛だったとは。店の中には時計がない。窓から見える範囲の構内にも、時計と思しきものは一つもなかった。
あの約束の時間にはまだなっていないだろうか。刻一刻と時間が過ぎていくのは確かなのに、誰かがこの店に入ってくる気配どころか、目の前を通り過ぎる気配すらない。
時間の渦に巻き込まれてしまいそうになりながら、冷めきって泥のようになってしまっているコーヒーを飲む。温かかったはずなのだ、ついさっきまでは。
駅のアナウンスと同時に、店のドアが開く音がするのでついに来たかととっさに頭を上げると、あの男とは似ても似つかない、華奢な女性が入ってきた。とんでもない期待と緊張の中にいる私を、いとも簡単にその細い脚でけり倒してきたかのような感覚にさえなる。彼女はコーヒーを注文すると二つ隣の席に座り、慣れた手つきで鞄から本を取り出すのだった。
舌打ちでもしたい気分にでもなるが、彼女は何の関係もない一人の客の一人でしかない。自分勝手などろっとしたものがこみ上げてきていて、今にも溢れそうであることは、自分自身でもとっくに気付いていた。昨夜からも眠ることもできず、食欲もわかないすきっ腹に流し込むブラックコーヒーは、ただでさえ負担をかけている胃に追い打ちをかけていた。ため息とともに衝立にもたれかかり目を閉じる。
「7時40分発…」
ふと聞こえる駅のアナウンスは、前に聞いたものからずいぶんと開いてしまっていたようだ。気が付けば店はとっくに客で埋まっていた。最後に見たあの女性は既に退店したらしく、彼女だけがタイムスリップしたかのような初老の女性が同じ席でモーニングのトーストにかじりついている。
「寝過ごしている!」
とっさに立ち上がり伝票をつかみ取ると、2枚用紙が挟まっていることに気付いた。正確には1枚は封筒だ。私が寝てしまっている間に、彼は来ていたらしい。
コーヒー一杯でどれだけいたのだろう。一瞬申し訳ない気持ちになりながらも一杯分の料金を払い、店から出て大急ぎで封筒を確認すると、チケットと取り急ぎで書いたらしい手紙が出てくる。血の気が引いていく。既に乗るべき電車は出発していたし、何もかもが上手くいっていないことに気付くのは時間のかかることではなかった。
助かっていてほしかった。彼女だけは。そのために、私はあの家を捨てて出てきたのだから。
子供の頃、母にこっぴどく叱られていた時の頃を思い出す。
「もう少し自分ができないことを自覚して行動したらどうなの」
その声はあきれていたようにも思う。
途中までは上手くいっているはずなのに、肝心の部分で何かがおかしくなっていく。今回ばかりはやらなければと思っていたのにと、やり場のない怒りと自分への自責が、吐き気とともにないまぜになっていく。
立ち止まる私を迷惑そうによけながら、通勤ラッシュの波はいつもと同じように流れていった。そのよけている者は今、間接的にでも大切な人を殺してしまったということを、何人が知っているだろうか。
気が狂いそうになりながらも、鞄から手帳を取り出そうとする。大したものが入っていない鞄の中から手帳を取り出すのは簡単だ、そう思っていた。少しずつ鞄の中が乱れていくも、その中からは目当てのものは出てこない。あの男が持っていたのだろうか。しかしあの時鞄は私の体の下にあったのだ。
端的に考えれば、あの部屋のどこかに忘れてきたのだ。あの時男に会えたとしても、私たちの計画は失敗していた。私が忘れ物というどうしようもない間抜けな失敗をしたばかりに、彼女の運命は絶たれてしまっていたのだから。
今から電車に飛び込みたいとさえ思った。そうしたら彼は見ていてくれるだろうか。既に私は何もかもを失っていて、戻ったところで何かを出来ることはもうきっとない。立っているのがやっとの状態になっているのだから、もうホームに行かなければ、また何かをやらかしてしまいそうな気さえしてくる。
空から手帳が降ってきた。
自分のつま先ばかりに気を取られながら、茫然自失そのものともいえる格好で立っている私の頭に、衝撃が走ったのだ。
「忘れ物だよー」
次に降ってきたのは二度と聞くはずのない声。あっという間に天使にでもなってしまったのだろうか。前を見ると私の手帳を持つ、軽やかな笑顔の彼女が立っている。
「ごめんね、スマホ繋がらないし、手帳の中一番最初だけ見ちゃった」
仕事の出来る奴は、手帳の一番前に最も重要なことを書いている。何かで読んで実行していたことは、何かのすれ違いを生んでいた。この手帳を忘れないことが最も大切なことだったくせに、そんなことはあっという間に吹き飛んでしまった。
「なんでここに」
聞きたいのに声が出ない自分と、聞いてはいけないのではないかという葛藤。今、あの部屋の一室で佇むあの男の姿を想像したら、よくわからない表情になっていたらしい。彼女がたまらず噴出している。
「どこかに行くつもりだったの?」
「いや、もういいんだ」
やっと出た私の言葉に、猫のような目で不思議そうに彼女は小首をかしげた。
「朝ご飯食べて帰ろう」
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