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10年後の君へ①

いつもより早咲きの梅が雨に打たれている。
お構いなしに届いたばかりの制服を着た君は、あの日と同じ天気だなんて気にも留めないかのようにくるくると回った。
今にも消えそうになっている眼の光と、怯えるかのような目で俺を見る君の事を思い出す。
君に今の俺はどう映っているだろうか。庭先の黒塗りの車が君の姿と恐ろしくミスマッチに感じている。

あの日よりもずっと前、俺は君の母親をなじっていた。
夫と離婚し再婚した相手に騙されながら哀れにも暮らしていたその女と、君は少しずつ似てきている。
ただの客に何の情もなく、膨れ上がった借金の返済を促すためだ。
返済が滞り、取り立て屋として動いていた俺はその日も乱暴にドアをたたいてこじ開けた。
潰れそうなアパートで、たばこ臭さと酒臭さにまみれた部屋の中で子供とは思えないような荒んだ眼をした君を初めて見た。
薄汚れたボロボロの服と手入れのされていない伸び放題の髪で、力なく女の影に座っている。
自分のためだけにつぎ込まれた何百という大金と対極に、やせ細っている子供がいるなんて、俺の中ではどこにでもある光景でもあった。
あれだけ自分の子供が、飯を食べさせたいなんて泣き言言いながら金の無心をしに来るのに、実際に子供に使う資金は全体の何割なんだろうか。その辺に転がるブランド物の化粧品もさえも、安っぽい陳腐なものにも見えてくる。

君の父親はとっくに消えていて、どうすることもできなかった君をどうしようもない母親のもとに置き去りにした。
ろれつの回らない奴の相手をするのは骨が折れる。

「もう少し待って、もう少ししたらあの人が帰ってくるから」

ようやく聞き取れるような口の動きでテンプレみたいなセリフを言いながら、母親は潤んだ上目遣いをする。
いつまでもこの手が自分は使えると思っている女の常套句みたいなもんで、自分だけがかわいいと思っている目にはファンデーションが埋まったしわが刻まれた。

「もう少しってどれくらいだ?最初に貸してからずいぶんとしわが増えたじゃねぇか。体で払ってもらうってのも中も外も、どこ切り取っても厳しそうだな」
母親は押し黙ったまま俺を睨みつける。あの人というのは再婚相手の事で、君の父親はとっくに目の前からいなくなっていた。
どうしようもない母親に君を置いていくしかなかった理由と法の理不尽さは、どれだけの被害者を生んでいるんだろうか。

そんな俺も、恫喝し場合によっては自分の命もどうなるかわからないような仕事の中で、隙間のような穴を埋めるのにも必死だった。
この社会で生きていくしかなかった俺と、君の姿はどこか重なって見えていたのかもしれない。
半ばあきらめ気味に腹を決めがむしゃらに取り立て屋の仕事をしていたと思う。俺にはこれしかない。
こいつらと同じように法の下に入りながらも法外な取り立てをしている奇妙な存在。
物心ついたころからそんな奴が家に出入りしていたんだから。

何度も通う馴染みの店のようにボロアパートを訪れた。
時には居留守も使われ夫の暴力の真っ最中に行っては火に油を注ぐような真似もした。
激しくなる鈍い音を耳で聞きながら、頭のどこかで怯えている君の姿を想像する。
俺の知ったこっちゃねぇよ、あんなガキ…。

取り立ての仕事でも俺の組では管轄があり、人事異動の真似事もしていた。
管理のしやすさとなれ合いの防止なんていう親父の意向らしい。
昇給制度なんてもんまであるんだから、堅気と何も変わらない仕組みを取り込んでいることになる。
俺も昇給したうえでの人事異動となるのが確定し、いよいよ君の住んでいた町の管轄離れる最終日だった。
突然部下から連絡が入る。

「家に帰ってきません」

何日も姿を現さない君たち家族を不審に感じた俺は、下に張り込みをさせていた。
警察と対極ともいえる俺たちも、やっていることが何も変わらないと苦笑しながら指示を出した。
電気のメーターは止められているのか本当にいないのか、動く様子はないらしい。

やられた。

直感が動く。よくある話ではあるが、追いかけなければいけないような金額に君の母親の借りた金額は膨れ上がってしまっていた。
すぐに探すように指示を出し、次に異動してくる相手に引継ぎを出す。申し訳ないとの謝罪を入れて。
こんな時、同時にちらつくのは金の事よりも怯えながら俺たちが消えるのを待つ子供たちの顔だった。
助けて欲しいという思いと怖いと思う感情がないまぜになっているような、複雑な子供の表情を見なくても済む。

俺と同じようにほっとしているんだろうか、あいつは。
次の日俺は管轄から離れ、見慣れない街の公園にいた。ガキのほっとする顔だとか、逃げられている状況だとか一晩寝ればとっくに忘れていて、昨晩親父に叱責されたことだけが頭にこびりついている。

朝から曇天の日、本格的に降り出したのは夕方からだった。
公園にいたのも、安定しない天気に振り回されて近所の取り立てを、ずぶぬれの状態でやっていたからだ。
小さな子供が遊ぶような公園にあった東屋で連れてきた新しい二人の部下と休憩がてら雨宿りしていると、時刻は6時を回るころになっている。

ふいに遊具に目をやると小さな影が動くのが目に入る。
野良犬?どこかの家から逃げたのだろうか、大人しく犬小屋にでもいればいいのに、やっと自由の身になれたと思ったら雨に降られるなんてついていない。
体が冷えたのか部下の一人がくしゃみをする。影が飛び上がった。赤い布が飛び出る。
家出の子供なのか、小さな手が伸びて布を引っ張る。普段なら気にも留めないことだったが、濡れながら遊具に近づいていく。
とっくに泥にまみれた靴が雨を染み込ませてビチャビチャと音がする。足音に気付いているだろうか。
何事かと見守る部下の目線を気にしながら遊具の穴をのぞき込むと、そこにあったのは不安に満ちながらもやつれた顔。
時が止まる。記憶をたどる。なんでこんなところに。

「久しぶり」

俺が声を発するたびに跳ね上がる仕組みでもあるんだろうか。
あの時だって、俺が何かを言うたびに君は跳ね上がっていた。雨が激しくなる。

「中に入れてくれや。濡れちまうわ」

ぎょっとした顔に噴き出しそうになりながら、答えを待たずに強引に潜り込むと、思った以上に快適なのがわかる。
ただ、暗く狭い。少しのひび割れに残った土から雑草が飛び出し、足元にはカエルが飛び跳ねてはいるが、子供一人入り込むのは当たり前だが容易だろう。清潔とは程遠く、かなり冷えるが、最初に会った自宅とそれほど変わらない。
昔、君のうつろだった目は今にも閉じてしまいそうで、衰弱という言葉がよく似合っている。
君は俺の事は今も覚えているんだろうか。
あれだけ自分の母親を痛めつけたあのおじさんを、見てはいけないもののように視線をそらしている。

「もう外暗いぞ、こんなとこでガキ一人あぶねぇだろうが。」
「……待ってろって、お母さんが」

蚊の鳴くような絞り出す声は、すでに希望なんか感じていなかった。
君本人だって、自分が捨てられたことも、何となく気づいていたのだろう。
自分の母親は、迎えになんか来ないと。

「何日目だ?」
「え?」
「お前がここで待ってて何日目だ?」
「…」
「何となく気づいてるんじゃないのか?」

君が顔を上げる。俺の目を見る。泥と痣が混ざった顔は今にも涙で崩れそうだ。震える声で君は言う。

「三日目…です…」
「よくもそんなに気付かれなかったもんだな。普通保護されたりするもんだが」
「兄さん」

穴の出口に顔を向けると、どこからか持ってきた傘をさした部下がいた。
今日はぎょっとされる日だなと思いながらそいつの顔を見る。
君の方に顔を向ける。

「おい」

どすの効いた俺の声に、今度こそダメだとでも思ったんだろうか。それでも俺は脅迫を止めない。
三日前までランドセルを背負っていた。そして今日だってあんな母親の元に産まれなければ、元気に学校に行って元気に遊んでいたはずだ。
そんな幼気で何も知らないような子供に、聞かせてはいけないような声で脅しをかける。

「お前の母ちゃんはお前の事はいらなかったんだろうさ。ここに3日も待たされてるってことはつまり誰でもいいから拾ってくださいってことだ。その誰でもってのはたまたま俺だったってことだ。残念だったな」

どこまでついていないんだろう、このガキは。
ろくでもない母親に産み落とされ、まともに喋れない段階で父親にも見捨てられ、突然やってきた男と母親に暴力を振るわれ、まともな食事も与えられなかったうえに、今度は自分が捨てられた。
その後の結末はヤクザなんて平和とは程遠いおっさんに拾われるんだから。

「逃げたら許さねぇぞ。ついてこい」

君の肩が震えた。

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