見出し画像

水平・垂直のダイアローグからナラティブプランニングへの仮説

つれづれに書いて、あとでタイトルを付けるスタイル。
ここ最近で気になっているキーワードは「エビデンス主義」「民主化」「ジャスティスとコレクトネス」「時間」「正義の倫理とケアの倫理」「ナラティブ」「中動態」「当事者」「主体化」「エンパワメント」「信頼」「解釈多様性」「自由」「雑貨化」「断片化・コンテンツ化」「ネガティブケイパビリティ」「編集」「パーソナルプロジェクト」「未来の民話」「答えの観察」「遊び」「手入れ・手当」「コモンズ」「道具の使用」「水平のダイアローグと垂直のダイアローグ」「学習衝動」あたりだろうか。

今日は「水平のダイアローグと垂直のダイアローグ」についてかな。
これは『言語が消滅する前に』で「オープンダイアローグ」の開発者ヤーコ・セイックラの言葉ととして紹介されていたけど、國分功一郎さんと千葉雅也さんの解釈では、オープンダイアローグのような水平のダイアローグはそれが起こると同時に、個人の中では自身の「内なる声」と対話をするような垂直のダイアローグが起こっていて、そのバランスが良いね(中和)、ということでした。

たしかにコーチングとかしてると、クライアントとコーチの水平的な対話からクライアント自身による垂直的な「内なる対話」が同時に起こっている。そしてクライアントが自身の内側に新たな気づきを得たりして、それをコーチにシェアすることでさらに水平的対話が展開していったりする。

面白いのはコーチ自身にも同様のことが起きている。お互いがお互いと対話をしながら、また自身の内なる声とも対話を同時進行で行っていたりして、一つの水平のダイアローグに二つの垂直ダイアローグがくっついていたりする。
何かそのお互いの内側にある垂直のダイアローグが、ひとりでは起こせない理解をもたらしているような気がするなー。仮説だけど。

ちょっと話は変わるけど、仮説が生まれるってすごいことだよね。仮説が生じる瞬間って、なんか興奮する。

垂直のダイアローグ同士がもたらす理解、これはもう少し解像度を上げて行きたいなと思うけど、一旦これは仮説として保留しておこう。

もうひとつ水平垂直のダイアローグで考えたかったのは、ナラティブとの関係性ですよ。ここでいうナラティブとは、ある人が複数人の前で自身の物語を語ること、を意味しています。
ナラティブが起こることで、結果として水平のダイアローグが起動しますよね。そのときそれを聴いたひとの内側では垂直のダイアローグが同時に起こる。そうすると、あるひとのナラティブは水平のダイアローグを通じて他の人の垂直のダイアローグと関係性をもってしまう。
そうすると、その応答(response)によって聴いている人もその状況にレスポンシビリティ(責任感)を感じて、半主体化されていくような気がする。

ここで考えるのは、垂直のダイアローグが起こるナラティブとそうじゃないナラティブがあるのだろうか、ということ。
あるだろうなぁ。
私はよくストーリーとナラティブを対置させているんだけど、ストーリー寄りのナラティブは、たぶん垂直のダイアローグを喚起しづらいのではないか、というまたもや仮説。
ストーリーは内なる声ではなくて、正義の声を(外から)呼んできそうだなぁ。借りものの責任感というか。なるほどそれが國分功一郎氏のいうインピュタビリティか。

十分にナラティブな自分自身の物語りは、目の前のひとの垂直のダイアローグ喚起し、応答を呼ぶ。それぞれの仕方で垂直のダイアローグを行い、それぞれの仕方で応答を呼ぶ、という効果をもっているナラティブは、大量主体化製造機、とも呼べるかもしれない。また仮説。

と、ちょっと飛躍したけど、大きなフレームは描けたかもしれない。ナラティブと水平垂直ダイアローグと応答と責任感と主体化。ここまで繋がると、ナラティブのプランニング化も少し見えてくるかも。

ということで一旦仮説をいくつか提示できたところで、今日はおしまい。またゆっくり考えてみたいです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?