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ありのままの自分を生きる人を攻撃するエゴの自動反応システム

「自分さえ良ければ他人はどうでもいいエゴ」の発動

私の中には、相手のニーズはそっちのけで自分のニーズを満たそうとする「自分さえ良ければ他人はどうでもいいエゴ」がいる。

これは、4泊5日の海外リトリートに参加したことで、否応なく直面した自分自身の闇の一部であり、帰国して一晩明けた今日、はっきりと見えてきたことだ。

リトリート中は、ほぼ初対面に近い7人のメンバーとの集団行動を通じて、「自分さえ良ければ他人はどうでもいいエゴ」の働きと、それによって自分が受け取る現実がどんなものかを如実に体験することができた。

リトリート中、「自分さえ良ければ他人はどうでもいいエゴ」に気づいたのはこんな時だ。

  • 車に乗る時(自分にとっていかに居心地の良いシートに座るかの争奪戦。最後部座席には座りたくない。景色の見える助手席に座りたい、など)

  • 食事をするお店を選ぶ時(自分が食べたいものを食べたいニーズを満たすための争奪戦。サラダがいい、美味しいアイスクリームが食べたい、など)

  • 行く場所を選ぶ時(自分がいきたい場所のニーズを満たすための争奪戦)

空港で集合し、お互いに挨拶をしたところまでは「自分さえ良ければ相手はどうでもいいエゴ」は鳴りを潜めていた。

ところが、2日目以降、自分とは相入れないニーズを持っているメンバーの顔ぶれが見えてくるにつれ、「自分さえ良ければ他人はどうでもいいエゴ」が発動し始めた。

「どうやら、この人は私のニーズを脅かす存在らしいぞ。

「自分さえ良ければ他人はどうでも良い」裏に潜む信念体系

「自分さえ良ければ他人はどうでもいい」の裏に潜む信念体系はこうだ。

「人は自分の利益を脅かし、奪う存在。
自分の利益を守るためには、戦わなくてはならない。」

その信念通り、相手を自分から分離させ、自分の利益を脅かす存在として敵視するようになった。

私から敵視された相手は敏感に攻撃の波動を感じ取り、緊張感と共に防御の体制に入るのを感じた。

「自分さえよければ他人はどうでもいいエゴ」は自分のニーズを守るために相手を攻撃する

「自分さえ良ければ他人はどうでもいいエゴ」が発動して以降、共にリトリートを楽しみ、同じ時空間を共有し合う仲間意識はすっ飛んだ。

自分と相手との間に利害関係が発生し、他のリトリート参加者との関係性がギクシャクし始めた。

例えば、心から楽しそうに笑っている相手を見た時や、やりたいことをやって心から満足している相手を見た時。

自分が損したような感覚に見舞われ、瞬時に相手を攻撃するナイフのような鋭い念を相手に飛ばしている自分に気づいた。

「自分さえ良ければ他人はどうでもいいエゴ」は、ありのままの自分を自由に伸び伸びと生き生きと表現している人を見た瞬間、相手を攻撃し始める。

「自分さえ良ければ他人はどうでもいいエゴ」は、自分のニーズが満たされている限りはご機嫌だ。

そして、自分のニーズが満たされず、ニーズが満たされている相手を見るとたちまち機嫌が悪くなり、相手をエネルギーレベルで攻撃したり無視することで距離を置こうとする。

相手を叩き潰す事で自分と同じ意識のレベルまで引きずり落とす事で、自分の中の平安を保とうとするのだ。

エゴの攻撃は、行動と意識の中で行われる2パターンがある

「自分さえよければ他人はどうでもいい」エゴが自分のニーズを守るための攻撃は、行動という形で現れることもあれば、意識の中だけで行われる場合も多い。

行動という形で現れる場合は、相手と自分との間に境界線を引いて相手を遠ざけたり、自分の世界から切り離す事ことで自分の中の平安を保とうとする。

意識の中だけで行われる場合は、相手に攻撃、非難、否定というネガティブなエネルギーの念を飛ばし、相手をエネルギー的に弱らせることで、自分の中の平安を保とうとする。これがいわゆるサイキックアタックと呼ばれるものだ。

ここに複数人のグループがあって、集合意識がからむとややこしくなる。
相手の悪口を他の人に話したり、複数人の場合は批判や非難といったネガティブ(分離)意識の中でお互いに共振共鳴し合い、相手をつまはじきにして仲間外れにすること場合もある。

「こういう時にはこうあるべき」といった正論を振りかざし、その正当性をもって他の人たちと徒党を組み、集団で相手を攻撃したり非難、批判するのだ。

「目の前の現実はただの中立な映像で、体感が自分の中で起こっているだけ」

「自分さえ良ければ他人はどうでもいいエゴ」が発動している時、胸のうちは荒波が立ち、体感は重苦しく、心地悪い。

そんな中、救いだったのは、「目の前の現実はただの中立な映像で、体感が自分の中で起こっているだけ」という統合の教えだった。

リトリート中は、そんな心地悪い体感をキャッチするたびに、一人静かな場所に移動し、手放し、統合するワークをしていた。

帰国して一晩空けた今朝、改めて自分の心の動きを見つめ直し、「あの時のあの感覚」と自分に意識を向けて手放すことができている。

振り返れば、旅先に限ったことではなく、日常のちょっとした食事会の場などでも、「自分さえ良ければ他人はどうでもいいエゴ」はちょくちょく顔を出し、発動していることが見えてきた。

普段は鳴りを潜めている「自分さえ良ければ他の人はどうでもいい」エゴは、例えば2〜3時間の食事会の場などでは姿を表さずに済む場合もあるし、姿を現したとしてもほんの一部かもしれない。

ところが、4泊5日という長時間となると話は別だ。

全面的に姿を現した「自分さえ良ければ他人はどうでもいいエゴ」と対面し、否応なく向き合い、統合せざるを得なくなったのだ。

そんな自分の一面と向き合い、周りの人もびっくりしただろうが、一番驚いたのは私自身かもしれない。

完全な調和の世界を具現化するためにハイヤーセルフに委ねよう

本来はそれぞれが自分のニーズを満たし、誰も誰かの犠牲になることなく、完全な調和が取れることが望ましい。

ところが、相手とのニーズが衝突し、利害関係が発生した時は、どうすればいいのか?

まずはその行き詰まった感を手放し、統合する。

そして、宇宙意識(ハイヤーセルフ)に問いかけるのだ。
アクセス・コンシャスネスの問いかけの出番である。

  • "Can I change this?"(これ、変えられる?)

  • "What else is possible?"(他にどんな選択が可能?)

  • "How does it get any better than this?"(これよりもっといいことは?)

エゴ意識から答えを導き出そうとするのではなく、よりも高い次元に存在するハイヤーセルフに委ね、無限の選択と無限の可能性の中から、最高最善の選択を受け取る姿勢を選ぶ。

目覚めると決めた意識にとっては、どんな現実も目を覚ますために使うのだ、と教わったが、まさにその通りだと思う。

4泊5日の海外リトリートは、旅行ではなく、まさにリトリートだった。

この経験を生かすも殺すも自分次第。

自分の中の「自分さえ良ければ他人はどうでもいい」という分離意識から目を背けずにしっかり向き合い、統合し続けて行くと決意した。

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