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アタナシウス・キルヒャー:近世カトリックの博学

 アタナシウス・キルヒャーは17世紀ドイツの聖職者で学者(1601ー1680)。イエズス会士として活動しながら、幅広い知的関心のもとで学問に打ちこんだ。博学で知られた人物だった。古代ギリシャ語などの古典語に精通し、エジプト学のはしりとみなされ、天文・地理学や数学、音楽など多岐にわたって著述を行った。 


キルヒャー(Athanasius Kircher)の生涯

 キルヒャーはドイツのガイザで神学者の家庭に生まれた。イエズス会の学校でギリシャ語やヘブライ語を学んだ。10代後半でイエズス会に入った。パーダーボルンやケルンなどを転々としながら、神学や数学など、広範囲にわたって学問に打ち込んだ。これが博学的な彼の特徴の基礎を形成した。

 1624年頃、キルヒャーはハイリゲンシュタットのイエズス会学院で数学やヘブライ語などを教えた。だが、ドイツでのイエズス会の活動は次第に困難を増していった。というのも、この時期には30年戦争という宗教戦争がドイツで本格化していったためである。

 そのため、神聖ローマ皇帝のフェルディナンド2世からケプラーの後任として数学教授の職を提案されたときも、キルヒャーは断った。キルヒャーは1631年、フランスのアビニョンに移った。 1634年、教皇の招待に応じて、ローマに移った。これ以後、キルヒャーはこの地に定住し、研究に没頭した。

 鉱物学

 研究の範囲は多岐にわたった。地質学では、キルヒャーは当時発展してきた経験主義のアプローチを採用した。すなわち、噴火直後にナポリのヴェスヴィオ火山(古代のポンペイ遺跡で有名)の火口を訪れ、そのありさまを観察した。

 『地下世界』という地質学の理論書を公刊した。ほかにも、当時の科学革命の中で発展していた物理学や光学にも関心を抱き、仮説検証のために実験機器を製作することもあった。

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