見出し画像

オラニエ公ウィレム1世:オランダの建国の父

 ウィレム・ファン・オラニエ=ナッサウはオランダ(ネーデルラント)の政治家(1533ー1584)。オラニエ公とも呼ばれる。16世紀後半のネーデルラントでの反乱や戦争の主導者として知られる。この戦争の末にオランダが独立するため、建国の父と認知されている。スペインとの戦いの末に、これからみていくように、驚くべき最期を迎える。


ウィレム1世(Willem I)の生涯

 オラニエはドイツのディレンブルクでナッサウ伯ウィルヘルムの子として生まれた。1544年、従兄のルネが没した。
 オラニエは11歳にして、フランスにあったオラニエ公領と、ネーデルラントでの広大なナッサウ領の当主となった。ただし、経済的に豊かとはいえなかった。
 それらの領土は広大であり、政治的に重要であった。そこで、神聖ローマ皇帝カール5世はオラニエの教育に強い関心を抱いた。カールは特にオラニエの宗教的側面に問題を感じた。
 カールはルター主義に猛反対であり、カトリックの守護者を自認していた。そのため、オラニエをルター主義の両親から引き離し、ネーデルラント総督マルハレータのもとに移させた。
 オラニエにネーデルラントの宮廷でカトリックの教育を受けさせた。当時の貴族はフランス語を第一言語としていたので、オラニエもフランス語を習得した。

 ハプスブルク家への奉仕

 ハプスブルク家のもとで、オラニエは頭角を現していった。この頃、カール5世はフランス王とイタリア戦争をしていた。オラニエはその戦争で軍功をあげた。
 1555年、カール5世は神聖ローマ皇帝を退位し、この地位を弟のフェルディナント1世に譲った。同時に、スペインとネーデルラントの支配権を息子のフェリペ2世に譲った。

 そこで、オラニエはフェリペ2世に仕えることになった。彼のもとでも活躍した。たとえば、上述のイタリア戦争を終わらせるためのカトー・カンブレジ条約では、交渉役もつとめた。
 そのため、1559年、フェリペがネーデルラントからスペインへと帰国する際に、オラニエをホラント州とゼーラント州、ユトレヒト州の総督に任命した。このように、オラニエとフェリペ2世の関係は当初良好なものだった。これが次第に悪化していく。

 フェリペ2世とネーデルラント貴族の不和


 フェリペ2世はネーデルラントで様々な政策を打ち出した。これらの政策はネーデルラント貴族にとって不利益なものだった。よって、これらがネーデルラントの80年戦争の原因となる。これは世界史の教科書ではオランダ独立戦争と呼ばれている。
 原因は主に3つあげられる。
 第一に、フェリペはネーデルラントの統治層として、多数のスペイン人を派遣した。その結果、ネーデルラント出身の貴族たちは自分たちがネーデルラントの統治から除外されていると憤るようになった。彼らは貴族としての従来の権益を奪われた。
 第二に、重税である。これもまた貴族や都市にとって重荷となった。
 第三に、異端審問である。ネーデルラント貴族の大半はカトリックだった。だが、エラスムスの影響で、宗教的寛容の立場だった。よって、プロテスタントへの顕著な弾圧には反対だった。
 さらに、異端審問は貴族から所領や特権を奪う手段にもなりえた。これはスペインの異端審問の特徴でもある。そのため、異端審問は宗教的理由よりもむしろ、このような世俗的な理由で大いに警戒された。

 対抗勢力としてのオラニエの貴族同盟


 1561年から、オラニエはほかのネーデルラント貴族と協力して、これらの政策に反対の声をあげた。一定の成功をおさめた。
 1565年、オラニエたちは貴族同盟を結成した。異端審問や宗教的迫害の法律を廃止するよう要求した。この要求などのために、いわゆる「オランダ独立戦争」は宗教戦争だと伝統的には解釈されてきた。だが、この単純な解釈は今日の学問においては通用していない。
 たとえば、この同盟が異端審問に反対する理由が重要である。貴族たちは異端審問官が宗教のためという口実のもとで自身の私的利益を追求すると批判した。さらに、彼らがネーデルラントの法や特権を無視し、この地域の人々を隷従させるともいう。
 たしかに、貴族は異端審問が宗教的にも誤っているという。だが、批判の力点はむしろその世俗的な弊害にあった。よって、異端審問が彼らの戦争や反乱の主な原因の一つであるにしても、それゆえにこの戦争を宗教戦争だというのは難しい。

1566年の嘆願書

 1566年、オラニエら貴族はネーデルラント総督のマルハレータに嘆願書をだした。その要求は同じで、異端審問所の廃止などだった。
 ここで二点が重要である。第一に、貴族たちがこの嘆願書をマルハレータのもとに提出しに訪れた。マルハレータの従者が彼らをみて、「乞食」と言った。
 この「乞食」という他称を、貴族らは自称に変えた。すなわち、この対抗勢力の貴族らは「乞食」を名乗るようになった。
 その理由の一つはフランシスコ会にある。ネーデルラントのフランシスコ会は異端審問に反対していた。
 また、フランシスコ会は清貧で知られた修道会であり、貧しい服装をしていた。裕福な貴族がこれをシンボルとして利用することで、もはや秩序が逆転されてしまっていることを示した。
 第二に、マルハレータが貴族たちに妥協の姿勢を示した。この統制の緩みの結果、図像破壊運動が生じた。これは、カトリックの聖画や聖像などを暴徒が破壊した事件である。

図像破壊運動と血の評議会


 図像破壊運動はネーデルラント各地で起こった。これは敬虔なカトリックのフェリペ2世を激怒させた。オラニエらの貴族の大部分は図像破壊運動を支持しなかった。むしろ、カトリック教会の建物をその暴徒から武力で守った。

 この暴徒の鎮圧と懲罰のために、フェリペはアルバ公をネーデルラント総督として派遣した。ここから、事態は大きく動いていく。
 アルバ公はネーデルラントに到来して騒擾評議会を開催した。そこでは、図像破壊運動に関わったと思われる人々を大量に罰した。その数は1万人ほどに及んだ。当時としては例外的な人数が処刑された。
 その際に、ネーデルラントの主だった貴族のエフモント公とホールン公が処刑された。オラニエもまた財産没収の刑に処され、ネーデルラントでの全ての領地を没収された。ドイツに亡命した。

 オランダ独立戦争? 80年戦争の始まり


 1568年、ついにオラニエは主君フェリペ2世への反乱を開始した。これは教科書的にはオランダ独立戦争と呼ばれる。だが、この呼び名は様々な欠点があるので、学術的には用いられていない。
 学術的には、オランダ反乱やネーデルラント反乱と呼ばれる。あるいは、80年戦争がより一般的な名称である。1648年にオランダが正式に独立するまで80年間続いた戦争である。

 当初、オラニエの軍は敗北を重ねた。味方も少なかった。比較的少数の傭兵と、素人の志願兵では、スペイン軍には勝てなかった。 
 転機は1572年だった。海乞食と呼ばれる人々が幸運にも、デン・ブリルの攻略に成功した。そこから、ホラント州やゼーラント州の主要都市などがオラニエの味方に加わるようになった。

 ここから、戦況は一進一退だった。友敵関係もしばしば変わり、勢力図も常に変動した。そもそも、スペイン軍と反乱軍の対立という単純な二項対立でもなかった。どちらの味方にもなりたくない勢力が多く存在した。
 オラニエは反乱軍の主導者の一人だった。ただし、反乱軍の全体を統括していたわけではない。というより、統括したくてもできなかった。たとえば、上述の海乞食の実態は無法者の集団であった。そのため、オラニエと対立することにもなった。

ヘントの和約

ここから先は

6,460字 / 2画像

¥ 280

もしこの記事が気に入ったり、何かのお役に立ったりしたようでしたら、スキ/フォロー/SNSシェア等していただけると、とても励みになります!