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人生の終わり方…「亡くなったらただのカルシウム」

50歳も半ばぐらいになると、いわゆる「その次」を考えるようになる。
平均寿命(余命)が80歳を超える現在とはいえ、全員が全員80歳90歳まで生きることができるわけではない。
つい先日、最初に勤めた学校(今は別々の学校だが)で一緒だった先生が病気で亡くなった。50歳を過ぎたばかりだった。

ふと、自分は何歳まで生きるのだろうと考えることがある。
「終活」にはまだ早いか。でも「実家じまい」は両親がいなくなったら本格的にしなければらならない。遠くにある本家の「墓じまい」もするつもりだ。今の居住地とは、定年後きっぱりと縁を切る予定である。

幸いといえば幸いだが、生活できる経済力はある程度つけることができた。60歳で管理職から降りるが、65歳まで教員として働くことができる。そのあとも、常勤講師や非常勤講師などでたとえ県を跨いでも教えを継続することができるだろう。
65歳の定年後、教えることを続ける続けないにかかわらず、今の居住地を離れ、別の場所に移住する予定だ(より都会のところ)。すでに移住担当者とは相談を重ねており、居住スタイルもほぼ固まりつつある。今後は家に残った次女の大学卒業を見届け本格的に移住する。あと10年後の話だが。

その後は…どうなるだろう。どこで生を終えるのだろう。こればっかりはわからないので「運命」でしかない。

2017年に87歳亡くなった、昭和・平成を代表する名俳優に「神山繁(こうやましげる)」さんという方がいた。ドラマ・映画でよく見かけた方だった。その方が生前こんなことをおっしゃっていたという。
「たまに思い出してくれればいい。亡くなったら、ただのカルシウムだよ」
なので「葬式無用、戒名不要」と伝え、芸能人にありがちな「お別れの会」も開かれなかったという(2017年なのでコロナとは全く関係がない)。

ここまで割り切れるか、今の自分には自信が無いが、日本史を教える身としては、旧石器時代の人だって、縄文時代の人だって、藤原道長だって、織田信長だって、人間であるからには、結局亡くなれば「ただのカルシウム」になるのは間違いではないだろう。

誤解されないように述べておくが、宗教を否定するつもりはない。死後の世界がある・ない、生まれ変わり(輪廻転生)がある・ない、これはわからない。死んでみないとわからないかも知れないが、死んでもわからないかも知れない。そもそも考える中枢である「脳」が存在しないのだから。

でも、この話を聞いて、「亡くなればただのカルシウム」になるんだったら、生きている限り(人に迷惑をかけない限り)やりたいことをやってもいいんじゃないか、とある意味吹っ切れた気持ちになったことも確かである。

亡くなった人のことを思い出す機会は、だんだん薄れてくる。亡くなった人と自分の人生に接点が無い人はなおさらだ。神山さんは、映画・ドラマという媒体が残っているので「たまに思い出してくればいい」が実現できる羨ましい方だと思う。

でも私は、亡くなったあと忘れ去られても一向に構わないし、そうあるべきでだと思う。自分の子・孫・ひ孫・玄孫(以下の子孫)の生き方に自分は何も関係ないし、関係してはいけない、「この家は先祖代々…引き継がなければならない…」という言葉が一番嫌いだ。家が個人の人生を縛り付ける権利がどこにある?

前回の「結婚式」「同窓会」の話に重なるところがあるが、自分にかかわりがあった人には、いろいろなところでそれぞれ頑張ってほしいと思う。
それを一人でふと考える時間が好きだ。

私も、亡くなったら「ただのカルシウム」である。

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