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【新ニッポンヒストリー92話考察】二宮金次郎という若き傑物

二宮金次郎と言う男について一言でいうならば、
勤勉にして””自己投資を成功””させた傑物。
これに尽きる。

先ずどれだけ成功させたか、
銅像にもなり、学生の模範と言われるに至ったか
その結論として判りやすいのが
彼の青年時代、昼は居候先の伯父夫婦の手伝い
その傍らで薪を背負いながら勉学に勤しみ
資金を稼ぎ買い戻した実家の土地。

16歳~24歳までに買い戻したその土地の大きさは___。
1町4反余り、
これを現代の平米に換算すると____。

13,883.8㎡=4,207.21坪
判りやすく土地相場に換算すると
安く見積もっても

10億973万400円相当!

わずか8年で約11億円相当の土地を買い戻した若き傑物!
時代の波に呑まれ、若くして両親を亡くし
それでもめげず努力を怠らず
誠を貫いた男!
それが二宮金次郎尊徳という男なのです。

然て、今回二宮金次郎について筆を執らせて戴いた次第について
新ニッポンヒストリー( https://youtu.be/i2z-mtcyznA )
「もしも、歩き読書をしていた二宮 金次郎がひかれたら」
その考察とそれぞれの内容について解説を交えて
読み解いていきたいと思います。

二宮金次郎は正確な名前は残っていないのが現状。
自身の名前よりも学問に於いて、また故郷の人々の為に
その成果こそ残そうとした人物の為か
自らの名を残そうとはしなかったようで、
その中でも幕府に提出した署名にあったのが
”二宮金次郎尊徳”
と云う。

そんな彼が産まれたのは
天明7年(1787年)
相模国小田原藩預足柄上郡栢山村
現在の神奈川県小田原市の百姓
二宮利右衛門の3人兄弟の長男として生を得く。

そんな二宮金次郎でしたが家族仲は良かったようで
幼少から父:利右衛門の後について農作業や土地管理を学んでいたそうです。
ただ、問題は金次郎が産まれる以前からあった。
それは…父:利右衛門の代で土地の殆どを失った事による財政の悪化。
(本当の原因は別にあるのですが、それは後述しますので割愛)

元々二宮家は戦国大名後北条氏の代には伊豆国の伊東の農民であったが
二代:北条氏綱の時に伊豆から相州栢山村へ移転してきた中農百姓であり
金次郎の祖父の代に本家である祖父の兄:万兵衛から分家した銀右衛門(祖父)
だが祖父:銀右衛門には妻子が無く
それで祖父銀右衛門の兄の万兵衛(伯父の万兵衛とは別人)の次男である金次郎の父:利右衛門が二宮家の土地を継ぐに至った
大事な土地なのだが…

元々継いだばかりの頃は
二町三反二畝四歩:23,030.84㎡:約6,979坪
凡そ東京ドームの半分程あった土地が折からの長雨や
金次郎の父利右衛門が病気がちであった為、田畑から上がる利益の減少

江戸時代当時の税金はお米を収める””年貢米””と呼ばれるものだが
江戸時代通して米の不作でも年貢の免除や減税は稀で
年貢の量とは採れた米の何割かでは無く
石高:一反=一石から採れる見込み利益から計算するので
その年不作でも治める年貢米は変わらないし
逆に豊作だと米価安定の為、多い分を廃棄されたりする。

因みに現代の農家さんでも豊作の時は市場価格が下落しないように
市場に出る前に農協から廃棄するよう言われたりするのは
実は大体一緒で農家さんの悩みでもあり
今度農家さんの現地販売があれば是非話を聞いて欲しい。

そして農家さんが廃棄しなければならない分の野菜があったら
是非買って貰えると喜ぶ農家さんもいるので
聞いて貰いたい話であります。
農家さんによるので先ずは問合せからお願い致します
特に農家さんから定期購買契約していただけると
喜んで戴ける内容でもありますが
場所によっては御迷惑にもなりますので
そこは一度ご相談の上でお伺いしてください。
あと、
農家さんは生産者
八百屋さんは販売者
市場は卸売り
と違うのでそれはまた別の機会に。

然て話を戻し
病みがちであった父:利右衛門の薬代の為
父:利右衛門の慈善活動の為
金次郎が産まれる以前から徐々に土地を売り
二宮金次郎の父:利右衛門が亡くなる頃には
金次郎が14歳の頃にはかなりの土地を売ってしまい
七反五畝二九歩:7,461.239㎡:2,260.98坪ほどしか残っていなかったそう。
約32%にまで減少…。
この時までに売却した土地で交換した金子は49両2分2朱と記録に残っており
当時の価格で1両=22万円相当なので
約1091万7千500円で交換した事になります。

お父さん…子供におもちゃ買ってる場合じゃ無いよ…

そんな金次郎は14歳の時には
父:利右衛門の兄:万兵衛(祖父の兄の万兵衛とは別)に引き取られ
弟の友吉と富次郎は母方の実家:川久保家へ引き取られ
独り立ちする24歳頃までこの伯父の家庭で暮らすのですが…

その後、父の残した土地ですが夫役・租税の今後の支払いの為
総て売り払い
残った残金を元手に金貸しを行い利回りで当面の生活費としていました。
現代で言う所の金利貸付、金貸し屋ですね。
当時の金次郎は未だ16歳そこそこでしたが
地頭がかなり良かったのか、納税義務や手続きの有無もあり
利権を持ちながら窓口を親族に託し、
利益は分け前として保持していたそうなので
中学生くらいの歳ですでに金利貸しとして成功しつつ
親族にも利益を共有する仕組みを立ち上げる。
つまりは金貸会社の社長である。

金次郎を引き取った伯父の万次郎は
金次郎の事を可愛がり実の息子のように育てたそうで
金次郎は伯父の家で農作業のノウハウを学び
昼は畑作業を手伝いながら
その傍らで金利や経理を学び
税務を習得していきます。
その時の姿があの有名な
学校にある二宮金次郎の石像である

そんな二宮金次郎は
生涯において自身に課し自身が何者であるか認識した文言に
『勤倹譲』というものがある。

これは
「勤労によって得た富を蓄え後世の自己に譲る」
と言う思想であり
金次郎は決して驕らず、怠けず。
財を得ても放蕩せずに未来の自分への投資として
倹約して蓄えた。

その境地に至るに
伯父のお世話になっていた頃を振り返った金次郎自身の
日記からも垣間見える。

金次郎18歳の時
「よんどころ無く、親類の助成に預かり生長仕候間、
初めは荒地を開き、田畠を耕し、
夫食を求め、口腹を養わんと欲し
或いは衣服を求め、寒暑を凌がんと欲し
或いは居住を求め、風雨を凌がんと欲し
或いは父母の丹精を尽くせし大恩を報ぜんと欲し
或いは兄弟を養育せんと欲し、或いは親類縁者の助成に預かり候
恩義を報いんと欲し」
との思いを残している。

洪水で荒れた土地を開墾し
亡き父母への報恩を深くし
伯父:万兵衛家への報恩
弟を引き取ってくれた川久保家の養育に感謝しながら日々を
過ごした青年時代を思い起こした言葉であり
後に『報徳仕法』として残る根幹であった時でありました。

然て、今回新ニッポンヒストリーさんの本動画にある
もしも、歩き読書をしていた二宮金次郎が轢かれたら
という内容ですが、
じつは昔、教育委員会でも問題とされた一面があり。
それが―――。

栃木県の下野新聞に2016年3月3日の記事にて
スマホが普及して以降増え続ける『歩きスマホによる事故』の原因に
二宮金次郎の歩き読書の立像を結び付けて
日光市立南原小学校に寄贈した石像が立像では無く座像として寄贈し
その理由は

「あるきながら読書をする像を設置する事で
子供が真似をし事故を誘発する
昨今問題となっている歩きスマホの遠因となる
なので歩き読みでは無く座って読んでいる像を寄贈する」
という旨。

作中でもありましたが、事故というのは””いつ””〖どこ〗で起きるか判りません
昔の偉い人は言いました。
『火事を防ぐには防災の備えを充実させ安心するのではなく用心こそ肝要』
備えは大事だが油断こそ最も危険
常事故や危険に対しては用心が大事です。

繰り返し綴るが二宮金次郎の勉強しながら勤労に勤しむ姿は
座って読む暇など無く仕事しながら世の為、人の為に勉強していたのであって、二宮金次郎の立像の本来の意味は
勤労勤勉、報徳思想の推奨であり
間違っても歩きスマホや歩き読書の偶像では無い。
それと、本記事をお読み戴いた方なら既に御存知と思いますが
二宮金次郎は仮にスマホを持ったからと言って遊び惚けたり
親に対して不遜な言動を取り、悪態をついたりなど絶対にしません。
それは二宮金次郎が説いた『報徳思想』に下記四つの項目

・至誠:仁徳即ち他者を慈しみ愛する慈愛の心を常とし
・勤労:『至誠』の心で生活を営む事、働くのみを指すものでは無い
・分度:『勤労』で生活を送り無駄が無くなる。だが過度なケチでは無い
・推譲:『分度』を身に付け余剰となった財を他者に施せる心境

昨今、『断捨離』が流行りブームに乗って
何でもかんでも捨て、挙句に家族の思い出の品まで捨て
良かれと思って捨てたと言い訳し離婚に至るケースも多い。
そして中には離婚には至らずとも根に持ち
恨んでいるお父さんお母さん、子供たちもいるだろう。
くれぐれも断捨離は分度によって溢れた余剰分で行う事を
忘れてはならない。
でないとエライ目に遭います。
そして分度を弁えずとんでもない事をしたのが
二宮金次郎の父:利右衛門

父:利右衛門の行動は『推譲』では無いあれは偽善と言い
誰の為にもならない
誰の救いにもならない自己満足の行い。
これを戒めたのが『推譲』であり『分度』
他人に施せるは良い心がけだが、
それは生活に必要な資金や財産から溢れた余剰分からでなくてはなら無い。
親、家長の務めの第一義は家と家族を守る事。

その家族の生活を脅かし、困窮させてまで他人の為の出資をする事は
家族を犠牲にしており家長としての第一義を果たせていない。
正直害悪である。
やっている事が経済を回しているからと言って
パチンコや賭博に家財を注ぎ込んでいるのと一緒です。

これは利右衛門に限った話ではなく
現代の夫婦間でも起こり同様の内容で
当人は人助けのつもりでも
それで家族を犠牲にし離婚を言い渡されるも

「妻/夫なら、家族なんだから判ってくれると思った」
「これは人助けなんだ。どうして分かってくれない?」

そういう人が残念ながらいる。
家族は家族を一番に大事にし、家族を守って初めて家族。
家族より他人が大事ならそれは家族じゃない。

十かそこらの幼少の身であった当時の金次郎が
何故、まだ幼い末弟を父方の本家では無く
母方の川久保家へ送ったのか、
それも親の経済力の無さを理由に、
それは偏に『分度』を無視した過剰な施渡をする父親を危惧した
二宮金次郎が安全な母方の実家で弟が暮らせるよう案じた為では無かろうか
現にこの後、次男も母方の実家の川久保家へ送っている。
それも金次郎の嘆願によって。

この時代、普通ならあり得ない事態だ。
女子なら兎も角後継ぎに成りうる男子二人を
母方に送るのは余程の事態。

江戸時代、男子を母方へ送る事態といえば、
・家長が犯罪を犯した
・お家が取り潰される
・借金に追われ家名、土地を質に入れられる

等があげられる。
考えられるのは後者二つだろう。
実際、父利右衛門は土地を全て失い
それを復興したのは息子:二宮金次郎だ。
金次郎にとって父親は良き反面教師となった事だろう。
金次郎が後世説いて回った『報徳思想』を読んでいると
節々に父利右衛門の逆を行く思考が見え隠れしてくる。
金次郎が前半生をあまり語らなかったのはせめてもの
親孝行だったのかも知れないと思わずにはいれない。

そんな事前知識があると
本編はあくまでフィクションのファンタジーであるが
幼少の砌、親にできなかった反抗期なのではと思うと
ゐとをかし。

最後に二宮金次郎の偉業を簡潔に書留紹介し終えようと思います。
金次郎の偉業を全て総覧すればとてつもない膨大なものになる故
それはまたの機会に。

ちなみに先述していた父利右衛門が土地の68%を失った理由ですが
利右衛門が眼病を患っていた事とは別に
困っている人を見つけては
無償、無利子無担保で財産を与え施しを行い
金子が足りなければ二宮家の土地を売り
その資金で更に施し
その為二宮家は常に困窮した生活を送り
近隣住民から言われていた通名は

『善人の利右衛門』『栢山の善人』
であったそう。
因みに後談になるが
『金次郎は仕事しながら勉強し本(大学・論語)を読んでいた』
『金次郎は伯父宅では虐められ、夜灯りを燈す油について文句をいわれた』
というのは明治16年1883年になってから刊行された話が大本であり
金次郎の死後27年も後になってから言われだした事であり
歴史家の中でも甚だ疑問視される内容であり
二宮金次郎尊徳の弟子であり
師匠である金次郎の生涯や教えを纏めた
『金次郎物語』『報徳記』の作者『富田高慶』は書籍内にて
「余三十余年親炙すと雖も、まさにその記の誤まらんことを恐る」
とあり十分注意が必要であり
その経緯は
金次郎への敬慕が強く広まり
金次郎の生い立ちがより悲惨であり、その反動で後世偉業を為したと
判官贔屓から金次郎=正に対する伯父=悪役像が産まれたのではとされている。
重ねて言うが伯父:万兵衛が意地悪だったと
金次郎の直筆の記録は無く。
また、青年期を支えたのは伯父:万兵衛なのであり、
私には伯父が悪人とは中々思えない。

二宮金次郎尊徳(たかのり)享年69歳(数え歳70歳)の生涯に於いて
その偉業為しうる処、人生の生い立ちとは
そのお弟子さん富田高慶さんの残した記紀曰く。

1:父、利右衛門は栢山村の善人と呼ばれ貧窮者に無償の施しを行い
家庭を顧みない施しで家計は窮乏した

2:酒匂川洪水の時、家が浸水し家内を鮎が泳いだ

3:医者、村田道仙は金次郎の家の貧窮を同情し医療費を半額にした

4:川普請の時、金次郎は童の為大人程手伝えない事を心苦しく思い
夜なべして草履を編み夫役に参加した大人に配り
村の人々から感謝され感心されていた。

5:金次郎は編んだ草履を町で売りそのお金で親にお酒を勧め孝行した

6:洪水の経験から洪水予防の為、堤防に松を植えた
(松の根は塩害にも強く、根を張る事で堤防はより強固に崩れ難くなる)

7:家計窮乏の為、末弟富次郎を母方の叔父の川久保家へ預ける様
親に進言する

8:久野山で薪を採り小田原で売りそのお金で『大学』を買い
往復時に読み勉強していた
(儒教の経典の一つで『中庸』『論語』『孟子』と合わせて四書とされた書籍)

作中で金次郎(転生?)が『漢籍』が読みたいと言っていた書籍がこの『大学・四書』である

9:正月、親の散財の為、太神楽に払う金が無く居留守を使った

10:実家の復興が成らない内に金次郎は本家の復興に着手

11:油菜を仙了川の堤防に植え、夜学の燈油代を稼ぐ

12:捨てられていた苗を未開墾地を利用して開墾し
秋には米俵一俵(60㎏)追加生産に成功する

13:飯泉観音に参詣の折、僧侶の読む観音経に感銘を受け
200文(6,500円)の寄進を行う

14:二十歳の時に洪水で倒壊した実家を修繕改築し移り住む

15:24歳の時に二宮家の再興を成し遂げる

16:小田原藩家老(現代で言う所の県知事補佐官)の服部十郎兵衛の
藩校(現代で言う所の大学校)の講義を聴き儒学の経典を学ぶ

17:小田原藩家老の服部家の財政再建のマネジメントを請け負い成功させ
それまでの財政より300両(3千万円)の余剰を生み出し
黒字経営に復活させる大偉業を成し遂げる
(現代で言う所の敏腕経営コンサルタント:青年実業家)

18:堀之内村の中島きの と結婚

19:文政元年1818年、小田原藩主:大久保忠真公の孝子節婦奇特者として
表彰される。

20:金次郎との間に生まれた長男が若かくして亡くなり
その責任は金次郎にあると中島きの は金次郎を責め離婚される

21:岡田峯右衛門の娘、なみ と結婚

22:小田原藩で使用されていた一斗枡を改良し、藩内で統一規格化させた。不正を行っていた役人を暴き不正改良された升を廃止させ差分を横領されていたのを防ぎ小田原藩士から評価され
小田原領の農民からも感謝される

23:財政再建し余剰した資金を基に小田原藩へ
資金困窮している下級藩士御家人への無利子での資金提供を提案し
藩士全体の生活保障を向上させる。

24:成田山にて山籠もり中に経営に於ける悟りに至り
一円融合論を完成させる
(一円融合とは物事に於いて発生した出来事は別々の出来事では無く
すべてのものが互いに働き合い、結びつき一体となったときに初めて結果が出るというの)
要約解釈して現代的に一部を解釈すれば
〖一は全、全は一。〗みたいな感じです。

25:村内にて誰もが面倒がりやろうしなかった
畑にある木の根っこの除去を
毎日毎日掘り起こして除去している老人に
金次郎は特別手当として15両(150万円)を与え表彰し
皆の前でこの働き者の老人を褒め称えた

26:晩春に茄子を食べたところ、
秋ナスのような味がした為、村人に
今年の夏は冷夏になり不作が予想されると伝え
不作に備え冷害に強い稗を作るよう指示。
食料飢饉を未然に防いだ。
(稗:ヒエとは稲科の植物で雑穀として食べられる
また、年貢米対策として粟や稗は納税から外されており
貴重な食料とされていた
因みに米を作り終えた田んぼで麦や稗などを育て収穫し
食料とする事を二毛作と言い、平安時代から続く
大事な食料源であります)

本当はさらに駿河、相模、伊豆、下野(静岡県、神奈川県、栃木県)の財政再建の手腕を買われ各地で経営コンサルタント、マネジメントを行い財政再建に貢献し多額の巨万の富を生み出しているが二宮金次郎は常に褒賞を求めず
総ては世の為人の為、困窮した人を助けたい一心で行動し
ただ施すような無責任な偽善を行わず
施した金銭で経営を立て直したり
社会復帰の助成したり
また私欲で不正を働き悪事を働く者を暴き正しくお金が循環するよう働きかけたり

世の中の立て直しを図った経済の立役者
今の日本の基盤を築いた英雄。
それが『二宮金次郎尊徳』なのです。

最後に実際に二宮金次郎と面識がり金次郎を知る
近代日本の父、江戸幕府陸軍総帥、勝海舟の金次郎の
人物像を語った言葉で締めます。
長らく構文講読いただきありがとうございます。
叶いますれば、もし子供に問われたとき二宮金次郎とは
どれだけ素晴らしい人物で世の中の為に貢献したのか
語り継いでくだされば、金次郎の像が
学校にある意味があります。
二宮金次郎の行い、その誇りは日本人の魂であり模範です。

歴史を知り、偉人の生きた足跡を辿り
近しく感じ楽しみ学び伝える事。
それが歴史を識る楽しみの一つです

伝:二宮金次郎尊徳

勝海舟曰く二宮金次郎という男について『海舟全集:第十巻』より抜粋
「二宮尊徳には一度会ったが、至って正直な人だったよ。
全体あんな時勢には、あんな人物が沢山出来るものだ。
時勢が人を作る例はおれはたしかにみたよ」

新ニッポンヒストリー
https://youtu.be/i2z-mtcyznA

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