【連載・栗山英樹の「レキシズム」第1回】_×歴史学者・小和田哲男「監督をするからには徳川家康をめざすべき」(月刊『歴史人』)
歴史上の人物の生き方、そして言葉に多大な影響を受けたという野球界の名将・栗山英樹氏。歴史から学ぶことの先に、何があるのかーーーをテーマに、毎回、歴史の専門家をゲストに招いての連載対談がスタート!
第一回目のゲストは、戦国史研究の第一人者・小和田哲男氏。
徳川家康の人物像やエピソード、戦略を通して「徳川家康とは何者だったのか?」、そして「敗将・今川義元に〝何〟を見て、〝何〟を学ぶのか?」について熱く語った!
取材・文/上永哲矢 写真/春日英章 取材協力/増上寺
「監督をするからには家康をめざすべきですね」(栗山)
スゴすぎる260年間の泰平
徳川家康とはどんな人なのか?
栗山英樹(以下、栗山) 僕は10年間、プロ野球の監督をやらせていただいたのですが、あっという間でした。でも10年は人間の一生の中で考えると短い期間ではないと思います。そう考えると徳川家康が拓いた江戸時代の約260年は、とてつもない長さに感じます。
いったい、この家康、どんな人だったのか。小和田先生はどうご覧になりますか?
小和田哲男(以下、小和田) 栗山さんがおっしゃるとおり、やはり265年も続いた江戸徳川幕府を開いた人物という点で世界的にも評価される人ですね。ただ、その人物像となると、意外にあまり知られていませんし、ひと昔前は「腹黒さ」がクローズアップされて「狸おやじ」などと呼ばれていました。その一方で、2023年の大河ドラマ『どうする家康』では、とくに若い時代には「どうする、どうする?」と迷うなど、彼の弱々しいところも描かれて、成長していった様子が出ていましたね。
栗山 やはり大河ドラマで描かれたように、家康も若いころはかなり迷うことも多かったのでしょうか?
小和田 そうだと思います。家康の出自である三河の松平家は、土豪と国人領主の間ぐらいの小さな存在でした。西には勢いのある織田信秀がいて、東には有力大名の今川義元がいる。どちらにつくか考えた末に、まだ幼い竹千代(家康)が人質として最初は織田家へ行き、その後に今川家に預けられることになりますが、父親の松平広忠も若くして亡くなりますし、先が見えない、生きていくのに精いっぱいな若いころでしたからね。
ただ、人質時代の竹千代というと、ひと昔前の見方は不自由な暮らしを強いられ、艱難辛苦に耐えて、彼の忍耐強い性格が培われたといわれてきました。それが最近は、今川家ではかなりの英才教育が施され、帝王学・リーダー論を学んだことが後々まで活きたのではないかという捉え方が主流になってきました。今川家では8歳から19歳までの11年間を過ごしていますが、その多感な時期に今川家の重臣・太原雪斎(たいげんせっさい)などから教えを受けたようです。
家康が読んだ『四書五経』
監督の成長に役立つと思いました
栗山 ちょうど僕の監督のキャリアと同じくらいの期間ですね(笑)。
今、インターネットの普及などで本を読まない人も多くなっているようですが、やはり、若いころから本を読むことは大切なのでしょうね。僕も家康が『四書五経』を読んでいたと聞いて、監督として成長するのにも役立つと思って読みました。家康は幼いころからそういった書物に触れていたのですね。
小和田 映像を観たり、人の話を聞いたりすること以上に、やはり自分で文字を読む、何度も読むという経験を子供のころからするということが人間を成長させると思っています。
家康の名言といわれる「天下は一人の天下にあらず。すなわち天下は天下の天下なり」というものが『三河物語』に書かれていますが、じつは兵法書の『六韜(りくとう)』にある言葉の「パクリ」です(笑)。ただ、それを家臣たちもありがたい言葉として聞いたと思います。兵法書は単に戦いのノウハウを書いたものではなく、帝王学・リーダー論を述べた書でもあるんですよね。
ここから先は
¥ 300