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文化大革命略史Ⅰ: 共和国成立以前

 1840年のアヘン戦争以来、中国はおよそ1世紀もの間、様々な内憂外患に苦しめられてきた。もともと中国はヨーロッパ諸国と比べても遜色ないほど文化的に優れた国だったが、近代化が遅れたせいで、帝国主義政策を採る国々の侵略を甘受しなければならなくなった。

列強による中国分割の風刺画

 各国は争って中国の利権を貪り、後には明治維新を経て近代化に成功した日本もそれに加わった。もちろん、全ての日本人が中国侵略に賛同していた訳ではない。欧米列強のアジア進出を食い止めるためには、日中間の協力が不可欠だと主張した人々も少数ながら存在していた。しかし彼らの意見が時の政府に聞き入られることは遂になく、結局日本は1937年に中国との全面戦争に突入してしまう。

 その頃中国を支配していたのは、蒋介石率いる国民党政府だった。
 蔣はうわべでは日本の侵略に対しては断固として抵抗すると息巻いてみせたが、内心では国内に割拠する敵対分子の殲滅を優先する腹を決めていた。
 そのためか、国民党政府の戦争指導はどこか真剣味を欠いたものとなり、結果的には日本軍に緒戦の快進撃を許してしまった。

蔣介石

 同じ頃、陝西省延安で「抗日遊撃戦争の戦略問題」という論文を執筆し、全国民に日本軍への徹底抗戦を呼び掛けた男がいる。

 われわれの敵は、たぶんいまだに、元朝が宋を滅ぼし、清朝が明を滅ぼし、イギリスが北アメリカやインドを占領し、ラテン系の諸国が中央・南アメリカを占領したような甘い夢をむさぼっていることであろう。
 しかし、このような夢は、こんにちの中国においては、現実的な意味をもたない。なぜなら、こんにちの中国には、以上に述べたような歴史にはなかったものがくわわっているからである。
 たとえば、ひじょうに真新しい遊撃戦争がその一つである。もしわれわれの敵がこの点を過少に評価するなら、まさにそのことによって、かれらはかならずや、ひどいめにあうことであろう。

藤田敬一訳

 広範な人民大衆と軍隊が共闘し、日本軍を奥地に誘い込んで遊撃戦を展開すれば、この戦争は必ずや中国の勝利に終わるはずだ…というのがその論旨だったが、あくまでも当時の現実に立脚して書かれていたので、説得力はじゅうぶんにあった。
 実際、泥沼と化した日中戦争は、ほぼこの論文の内容通りに推移してゆき、「ひどいめ」に遭わされた日本は1945年に敗戦の屈辱を味わう。
 著者の予言は正しかったのである。

 さて、祖国の危機に心を痛めていた青年たちは、この論文に大いに勇気付けられたが、当の著者自身は後に「自分が天下を取れたのは、日本軍が国民党政府に打撃を与えてくれたおかげだ」と語り、側近たちを慌てさせたという。
 果ては、彼のもとを訪れた日本人使節団にも同じことを語ったというから笑えない。そんなことを中国の指導者となった彼の口から聞かされた日本人は当惑するほか無かっただろう。なんとも気の毒である。

 この論文の著者——毛沢東にはこのように、わざと突拍子もない言動をとり、周囲が慌てふためくのを見て喜ぶという、困った癖があった。

延安時代の毛沢東

 単なる癖ならまだ許せるが、それを現実政治の世界にまで持ち込むのだから、たちが悪い。
 意図的に矛盾した言動をとって周囲を混乱させ、自分が有利になる状況を作り出すというのが、彼の十八番だ。
 イギリスの歴史家ジョナサン・スペンスは彼を「無秩序の王様」と呼んだが、言い得て妙である。

 だが裏を返せば、こういうアクの強い人物に登場してもらわなければどうしようもないほどに、人民共和国成立以前の中国は絶望的な状況にあった。  

 侵略・内戦・貧困という三重苦がのしかかった中国を再生させるには、彼のような「乱世の姦雄」が不可欠だったことは理解できるし、仕方のないことだとも思う。

 しかし、たとえ乱世では英雄として賞賛されるような人物でも、平和な時代が到来すれば無用の長物に成り果てる。それを認めることができなかった毛沢東は、再び混沌状態を造り出して、権力の座に返り咲こうと目論んだ。
 こうして1966年、文化大革命の幕が切って落とされたのである。

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