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冨田勲『月の光』(1974)

アルバム情報

アーティスト: 冨田勲
リリース日: 1974/4/12
レーベル: RCAレッドシール(アメリカ)
「50年の邦楽ベスト100」における順位は93位でした。

メンバーの感想

The End End

 全編を通して、モーグらしい上品なのに太く芯の通ったオシレーターと弾力のあるフィルターの音色が本当に心地よい。
 シンセサイザーをかじっている身としては、この音像の裏にどれだけの緻密な調整と忍耐が隠れているのか想像せざるを得ない。Pro ToolsはおろかMIDIやデジタルシーケンサーもない、なんだったらこのMoog-Ⅲを持ってる人だって日本には他にいない…そんな中でこれを作ろうと思い立つなんて、そしてやり遂げてしまうなんて、酔狂という言葉ではとても足りない境地に立っていると思う。
 CVで制御するアナログシーケンサーは当時すでにあった、とはいえステップ数はたった24だし、複数の音を同時に鳴らせるわけでもなかった。1台のシンセでは同時に1パートしか録音できないうえ、それも25音目以降はシーケンサーを設定し直して改めて録音するのだから、並の人間では1曲だってやり遂げられない途方もない作業だ。レコーダーだってたったの24チャンネルなんですよ???
 冨田はこのアルバムのマスターテープを作るのに1年4ヶ月を要したそうだが、周辺機器や統一規格の無い当時の環境を思うとむしろよくぞたったそれだけの時間で…という感想以外出てこない。
 シンセサイザーは得てして非人間的で匿名的、というイメージを持たれやすいが、とんでもない!このアルバムでわかるように、ひとりの人間の血と汗と美意識が、こんなにも雄弁に語りかけてきているじゃないか。
 クラシックの名曲が知っているようで知らない不思議な電子音で奏でられているの、当時の人たちからしたらある種のシンギュラリティだったんじゃないだろうか。シンセサイザーを愛する我々全員の偉大な父です、本当にありがとうございます。

桜子

全体的にあまり耳馴染みのないシンセの音だったので初めて聴いた時ビビりました。
シンセサイザーって宇宙だったんだ...って、作者の想像力の広さにちょっと怖くなります。
音の距離も長さも全て人がシンセサイザーを操って作ったんだと考えるとビビります。

俊介

 ちょうどここ最近、クラシックのコンサートへ足を運んでみたり、クラシックの時代区分毎の代表作品を聴いてみたり、チェロでもチャレンジしてみようかと楽器店に足を運んでみたりと個人的なクラシックに対する接近があったので、「月の光」はタイムリーな作品でした。
 クラシック音楽に興味を持ったのは、自分の処理できないスピードで供給され続けるポップスやロック、ダンスミュージックの膨大な情報量と、その派手な音色からの漠然とした逃避からだったので、電子楽器とクラシックが混ざってもあんまり心が動かなかった。
 けど、オールマイティに選出された名盤ランキングの中でもクラシックが絡んだ作品は珍しい(多分)ので、邦楽の中、ランキングの中で考えてみても、特異点的なアルバムなのでしょうか。
 タイムリーにクラシックを齧ってしまい、謎のマイブームが到来しているせいで、どうしてもエコひいきしてしまう。  
 話めちゃくちゃ逸れますが、そこそこいいスピーカーと、できる限りのでかい音で聴くドビュッシー、ポピュラーミュージックとはまた違った種類の感動と衝撃飛び込んでくるんでおすすめです。(特に「管弦楽のための映像」。)

湘南ギャル

 こりゃーVRで宇宙の映像でも観ながら聴きたい。無重力体験も付いてたらなお最高。ふと、ホルストの惑星を聞きたくなる。そしたら見つけてしまった。冨田勲バージョンの惑星を。あまりアーティストに対してこんな気持ちになることはないんだけれど、この時ばかりは冨田勲とハイタッチしたくなった。
宇宙の次は、未来の話をする。300年後の音楽オタクはビートルズを聴いてるんだろうか、ということをよく考える。きっと聴かれなくなる、という暗い予想ばかりしていた。でも、もしかしたら未来の冨田勲がネオビートルズみたいなものを作り上げてるかもしれない。そういった希望を感じることもできた。

しろみけさん

 往復書簡。西洋のクラシック教育を受けた東洋人が西洋のテクノロジーが生み出した新たな楽器を使って東京で録音し、それをアメリカのレコード会社から出してヒットさせる。この往復運動が繰り出した摩擦によって削られたもの/削られてないものこそ、両者の「らしさ」だったのではないか。

談合坂

 非常にダイナミックで大きい音が鳴っているけど、それが「シンセサウンド」として私にとって馴染みの深いPAシステム的な音量感ではなくて、コンサートホールで聴くオーケストラの音量感で聴こえてくるのが心地良い。すごくアコースティック。
 原初のDTMがもたらしたときめきは私にもなんとなく想像がつくけれど、これに関しては私が当時の人々の心境を正確に量るのは限界があるように思う。

 この甘美でスムースな、環境音楽とエレクトロニカとニューエイジとクラシックの超然さを一手に引き受けたオーパーツのような作品の背景には当時日本では珍しかったモーグのシンセサイザーと、数秒ずつしか録音できない状況で重ねられた途方にくれる程膨大な時間が眠っている。人間の根性と熱意が、あらゆるエモーショナルを超えて月や海や空や雲といったでっかい概念に近接した瞬間をレコードに納めた作品、だろうか。そんなことも知らずに初めて聴いた時は1988年くらいの作品かな、、、と思っていた。今聴いてもそのような10年20年の差異など飛び越えてしまうような圧倒的な普遍性がある。

みせざき

 一聴してみてとても驚きましたが、シンセサイザーの音が凄く聴きやすくて耳馴染みが良いなと思いました。前衛的な雰囲気も感じますが、それでもとても聴きやすかったです。クラシック曲など知っている曲も多かったので、曲中のそれぞれの旋律一つ一つの音色を変えたり、原曲にはない音、効果音が足されていたり、オリジナルをそこまで崩す訳ではないが、新たな解釈を促してくれるような印象を受けました。ちょっとファミコンのBGMのような、ポップな要素が足される感じも凄く面白かったです。「ゴリヴォーグのケークウォーク」のような少しフィルターの効いていたサウンドも聴いていて気持ち良かったです。

和田はるくに

 シンセ到来時代。新しい機材がやってくれば試したくなるのが性分。しかもここは地の果て、極東日本だ。クラシック(というよりバロック?)というすでに親しまれてきた音楽に、シンセサイザーという枠組みを適用してどうなるのか、化学実験が行われるのは必然的な流れといえよう。だけれども、ただの掛け算になっていないというか、「これ一台でここまでできる時代になった!」という喜びが音の節々から伝わるというか。音は最新鋭なんだけどウェットな人の喜びが伝わってくる。

渡田

 他の人も言うように与えるイメージは壮大な大自然だったり宇宙だったりする。元のピアノ曲にない印象は、電子音の独特の伸び方や震え方によるものか。
 シンセサイザーは他の音と組み合わせてこそ、曲の印象をつくっていける楽器なのだと感じた。これは、ポストパンクやニューウェーブ、ジャーマンプログレで用いられるシンセサイザーの音にも言えるのではないだろうか。
ロックばかり聴いている自分にとって、普段聴いているものとはかけ離れたアルバムだったが、そういった点では繋がりを見出せた。

次回予告

次回は、シュガー・ベイブ『SONGS』を扱います。

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