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高田渡『ごあいさつ』(1971)

アルバム情報

アーティスト: 高田渡
リリース日: 1971/6/1
レーベル: キングレコード(日本)
「50年の邦楽ベスト100」における順位は42位でした。

メンバーの感想

The End End

 「満足できるかな」を聴いていてもそう感じたが、そこにある生活をまっすぐ言葉にして歌うことが、何よりのプロテストソングなのかもしれない。身の回りはどんな景色で、どんなものを幸せだと考えていて、何が贅沢で、何が手に入らないのか、それらをただ正直に差し出されるだけで、イデオロギーでは掬いきれない生きた手ざわりが迫ってくるような感覚を覚える。
 多くの曲は高田自身の作詞ではないのだけど、提供されて歌うのではなく既に“在る”詩を自ら選んで歌に乗せているからか、文体や語り方はそれぞれ違うのに同じひとつのペルソナを感じるから面白いし、一歩間違えば棒読みになってしまいそうな朴訥とした歌唱も本当に良い。ほかでもないその声が作品を統一しているのかもしれないが…
 今後も繰り返し好んで聴くと思います。

桜子

 ひたすら大衆に寄り添っているアルバムだなと思いました。自分達の生活に基づいた実直な詩。自分自身でも詩を書いたりしているのですが、自分一人の力じゃどうにもならない事への期待感や危機感を抱いていない自分には書けない詩があるなあと感じました。

俊介

 70年代のフォークはほとんど聴く機会がなかったのでとても新鮮だった。
 曲の大半はプロテストソングとしての意図が込められているだろうけども、直接的な言い回しは避けて、婉曲的に表現したり、ユーモアを交えて軽快に歌ってくれるので、歌ものとしてもすごいラフに聞ける。
 中には一見、ただの日常の一場面を切り取ったような詞もあるけど、こういう日常讃歌が逆説的に、むしろプロテストソングとしての強度をもつんだろうなと考えたりした。だから、個人的には「おなじみの短い手紙」とか、「値上げ」よりも、「失業手当」とか、「コーヒーブルース」の方がプロテスタントソングとしてしっくりきた。社会の諸事情に対して大手を振って問題提起をする音楽よりも、パーソナルでとりとめもないような個人的な私情を歌う音楽の方が、ときに強く心の人を打つ実感がある。
 曲中の大半の詞は高田渡氏が好んでいた複数人の現代詩人によるものらしく、高田氏による詞は数曲にとどまっている。
 著書によると「彼らが書いたものに比べると、僕の詩なんて及びもつかないと思った。だったら彼らの詩に曲をつけたほうがよっぽどいいだろうということで、現代詩を採用するようになったのだ。」ということらしいが、この作品で一番印象的だった「日曜日」は高田氏の作詞だった。
 「君がいなくなってから この街に住もうと 思っています」って詩として秀逸すぎます。

湘南ギャル

 いきなり人生の話をして申し訳ないんですが、小さい頃って自分が世界の中心だって、本気で思ってませんでした?私はそうでした。全能感はムキムキだったけれど、何者かにならなきゃいけないという焦燥感もあり、暴走列車のような生活を送っていた。そういう気持ちが引き起こした事故がたくさんある。ただ最近は、この世に生を受けた事と何かを成し遂げなきゃいけないという事は、イコールではない気がしている。生活の機微に目をかけているうちに人生って終わりそうだ、という予感もある。正直、だいぶ生きやすくなった。このアルバムを聴いてたら、もっと早くにそれがわかったかもしれない。生活があり、そこには少しの変化があり、困窮したり、静かになったり、喜んだり、笑ったりする。ただその繰り返し。繰り返しであることに、物悲しくなりつつ、安堵もする。なんと端的にそれらを伝えてくれるアルバムなんだろう。Eテレで流してほしいねえ。

しろみけさん

 歌は渡る。メロディに乗って、世間を、場所を、時代を、詩は渡る。高田は谷川俊太郎や山之口貘などの口語詩にコードとメロディをつけて、その丸みを帯びた声でもって語りかける。チャイルディッシュな性格を帯びていた詩は、伏流していた語感の気持ちよさや口当たりの良さが強調され、ユーモラスに空気の中へと飛び込んでいってしまう。たとえそれがどこであれ。
 数年前に赤城乳業がガリガリ君の値段改定を行った際、テレビCMで「値上げ」が流れていた。ユーモアを入り口に窮状を伝える、実によくできたフォークのやり口だ。やはり確実に、歌は歴史をも渡っていく。

談合坂


 『満足できるかな』とはまた違って、ぐさりと刺さるタイプの素直さだと思った。スマホの本体スピーカーを使って音量を小さめにしてもう一度聴きなおしたら、子供のころに祖母の聞いていたラジオから世の中をのぞいていた時のような感覚になってよかったです。

 バナナ盤、である。名盤になる宿命である。この作品を上梓する前に高田渡はプロテストソングの旗手であったらしい。ただ、この作品の多くは谷川俊太郎をはじめとした詩人の詩にメロディーを載せたものである。かといって高田渡のメッセージが内包されていない訳では無い。身近な題材をテーマにした詩を読むことは身近な社会を詠うことであり、結婚するのにも自転車に乗るのにも社会性が含まれる。十分にプロテストソングとして機能している。そしてところどころメロディーの符割りに違和感がある訳だけど、そういった一種完璧では無いような空気感が「生活」を切り取ったレコードとして歴史的価値を持っている。

毎句八屯

 遠藤賢治然り、この時代で今に至って語り継がれるフォークのアルバムは角が取れた曲を作る傾向があると私は思う。詩はもちろん、本人から醸し出されるキャラクター、ギターのストロークや歌い方からも底知れぬ覇気よりも苦労した故に創出された優しさや深みや悲哀を感じられる。このアルバムでは歌詞こそ詩人からの引用が多いものの、詩の絶妙なチョイスとそこに乗せるメロディ、それまでの作品と比べ自分本位の歌詞にシフトチェンジした彼の心の変化が如実に分かった。

みせざき

 全体的にとても「素朴」という印象を受けました。何といってもまずこの声には惹きつけられるというか、自然に安心できる感覚がありました。特に歌い方が日本的な感覚を大事にされていて、「ま~た」、「お~まえは」、「ぼ~くは」などの一つの言葉の中で母音を伸ばす発音がこの作品の雰囲気にマッチしているなと感じました。歌詞も生活の中のありきたりな感覚を大事にされていて、飾らないというか、この方にとってのそのままの表現ができているなと感じました。

和田はるくに

 2枚前のエンケンと比べるとメッセージ性が違う。タイトルからして『失業手当』『値上げ』である。歌詞を調べてもなぜなのかその通りに歌っていない(高田の作詞でない作品が多いようなので、それのせいなのだろうか)。今回もう一度聞いてみて、すごい聞き覚えのある作風だと思って改めて考えてみたならば、その答えは初期のエレカシだ。ボーカルの拍の取り方は「生活」の頃のミヤジにかなり近い。エレカシというとRCから直結のイメージだったので、今回の発見はかなり意外だった。

渡田

 どうしようもない我が身を歌い捨てるような歌詞と、社会全体の風刺したりする歌詞が一つのアルバムに同居しているのは納得できる。自分を過剰に矮小化したり、世間全体を曖昧に捉えて皮肉ったりするのは、同じくして、自分自身の等身大の大きさから目を逸らす時の安心感を生んでくれるものだと思ったからだ。そういった共通点を感じることができた。
 一方で、一人の人間としての幸せを、素朴に、率直に歌詞にしているものには困惑した。
 先に挙げた曲では、自分の具体的な生活や未来を誤魔化し、その日限りの幸せな情緒を追体験させてくれるのに対し、後者の歌詞では、誰もが共感する等身大の幸せを顕示して、将来の幸せ、人生全体の幸せを考えさせてくる。
 このアルバムからは、現実からずっと身を逸らすことはできないことを痛感する。その日暮らしの若者から、大人になる瞬間というものが確かに存在するということを感じた。

次回予告

次回は、金延幸子『み空』を扱います。

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