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フィッシュマンズ『宇宙 日本 世田谷』(1997)

アルバム情報

アーティスト: フィッシュマンズ
リリース日: 1997/7/24
レーベル: ポリドール(日本)
「50年の邦楽ベスト100」における順位は43位でした。

メンバーの感想

The End End

 前作に比べて、不思議とヒリヒリをあまり感じない。レディオヘッドの『In Rainbows』みたいな、すべての調和をコントロールしているような感覚がある。そして、まだうまく言葉にはなっていないけど、ceroがフィッシュマンズに重ねて語られることがあるのが少しわかったような気もした。どちらも無い空間のリバーブが鳴っているからかな…
 それにしても、フィッシュマンズはいつだってリズム隊の精度が圧倒的だ。特にベース、どうしてこんな控えめな倍音の出方でこんなに前面に張り付くようなムードが出せるんだよ。右手のアタックと、何より音を止めるタイミングのコントロールが凄まじくて、聴いてて時々口が開いちゃう。

桜子

 自分が想像する、天国の世界の音像はこんな感じ!
 フワフワ浮いて揺れている音が実在感を感じさせなくて、気持ちは落ちつくんだけど、ドキドキする。楽しい。
 聴きすぎると、知る事のできないはずのその世界に近づいているような気持ちになってしまって、なんだか怖くなる!

俊介

 アルバム通して一匹の生き物みたいで有機的。
 歌詞の中の人々、誰も彼もみんな優しくて悪い人はひとりもいないのに、こんなに物悲しいのはなぜ?
 冬の明け方に、始発を目指して知り合いの家から芦花公園駅に向かう道すがら聴いてたら泣いてしまった。ものすごい楽しい時間を過ごした帰りだったのに。
 みんなで飲んでるときに飲み屋の外にある喫煙所に1人ででたときとか、盛り上がった文化祭の後、片付け日を挟んでいつもの平日に戻るあの廊下のいやな静けさとか、先に電車から降りた友達を見送ったあとにイヤホンをつけるあの感じにすごく似てる。
 慎ましい町での生活と、生活とは無縁の宇宙は、このアルバムの中だけではミクロからマクロにシームレスに繋がってる実感がある。
 少なくとも数年前の芦花公園ではそうだった。
 この目で宇宙をみたことはないけど、このアルバムを聴いてるときだけは宇宙が手に取るように分かる。

湘南ギャル

 フィッシュマンズは大好きなんだけれど、一番リピートしたアルバムがNeo Yankees’s Holidayだったもんで、フィッシュマンズとはレゲエやダブを日本語に落とし込んだバンドだ、というイメージが染みついていた。宇宙日本世田谷は、そんな私のイメージを軽々と飛び越えていった。もちろん、宇宙日本世田谷にレゲエやダブの要素が全くない訳ではない。むしろ色濃く残っている。でも、このアルバムを既存のジャンルに当てはめて捉えようとするのは野暮な気がしてしまう。使っている手法こそ同じかもしれないが、そこから生み出されているのは、フィッシュマンズしか描けない世界だ。優しくて、揺らいでいて、遠くて、暖かい。これは自分のために作られた箱庭なんだ、と思ってしまう。自分の周りの人間に好きな日本のアーティストを聞いたとしたら、人数や熱量を考慮した最大公約数がフィッシュマンズになる気がするし、その理由は「これは自分のためのものだ」って思う人が多いからなんじゃないかな。

しろみけさん

 フィッシュマンズのルーツにレゲエがあるなんて、ロックばかり聞いてた高校生の頃のしろみけ青年にはわからなかった。当時のレゲエへのリテラシーが湘南乃風くらいしかなかったので無理もない。今になって聞くと「MAGIC LIVE」や「WALKING IN THE RHYTHM」など、あからさまにルーツ志向に曲もあることにはあるのだが、積極的に聞こうとしないとレゲエとは思えない(そもそも、今だって大したレゲエのリテラシーがあるわけではなく…)。
 それは自分だけじゃなくて、例えばRYMの『宇宙 日本 世田谷』についているタグは順にDream Pop, Downtempo, Ambient Pop, Neo-Psychedelia, Dub, Neo-Psychedelia, Trip Hop…かろうじて「ダブ」というワードが出てくるのみだ。そして、ここに出てくるワードが、全て予期せず付されたものであることは注目に値するだろう。不恰好なジャンルの連なりは、言語の重力が縛れない地点にこの音楽があることを証明しているようだ。そういえば高校生の頃のしろみけ青年はどういう風に聞いてたっけ。そうそう、たしか真夏の夜の田んぼ道、真ん中でチャリに跨ったまんま聞いていた記憶が…。

談合坂

 電子機器に多くを頼ったビートとリズムの音楽でも、そこには手仕事が表れている。語る言葉は少ないけど、ひとつひとつが重い。重力の働くままに振る舞っているように見えて、ひとつひとつ抜かりなく表現に結びつけている。
 なんだか聴くことに集中してしまうというか、まずは一旦何も言語化せずに受け止める必要があるように感じた。

 聴きながら書くと、文字を打つ手が止まってしまう。音の引力に強制的に身体から魂が引き裂かれている感じ。それがすごく心地よい。声にかかるリバーブとディレイが「水槽の中の魚」といった無機質な言葉を脳の中に反駁させ勝手に頭の中で泳ぎ始め、いつのまにか消えていく。ドラッグとかやったこと無いけどこんな風に全部どうでも良くなるような、走馬灯がグルグル回るような感じなのだろうか。この日本語を日本語のまま頭に泳がせることが出来るのは嬉しい。黒人的でもなく、土着的な何かでもないこの唯一無二のヨレたリズムも心地よい。

みせざき

 宇宙から繋がる世田谷の世界を描いているかのように感じました。コスモの世界のようなアンビエントさも有りながらに東京の夜景や日本風情も感じさせられる、そんな印象を受けました。また「空中キャンプ」に比べてもよりゆったりとしたスローなレゲエ節が基調となっているが、ボーカルのメロディーのキャッチーさは残されている為聴きやすさも同時に感じることができました。

和田醉象

 空中キャンプ以上の浮遊感がする。まだ前は時々地面に足付けてふわふわしてる感覚だったけど、もう蹴り出してWEATHER REPORTの途中くらいからゆっくり登りだす。最初は風船くらいのスピードだけど、ロケットに乗って月でも火星でもないどこか遠くへ登っていくのを見ている感覚に陥る。途中までは僕らも一緒なんだけど、追い付けなくなって空に滲んでいく。
 ロケットには乗ったことはないし、乗る予定もないけど、急に上の次元を知ったみたいな、悟ったような感覚があった。

渡田

 以前レビューした「空中キャンプ」と、歌い方や楽器の音の出方は同じなのだけれど、曲から抱く印象は別質のものだった。「空中キャンプ」では、突然の無音状態と緊張感のある歌い出しの連続による張り詰めた空気に釘付けになったけれど、今回はそれとは違う引き寄せられる要素があったと思う。
 歌詞は曖昧で、コーラスも多く、その意味を追いきれないけれど、それでも、そういう言葉が示している精神状態やその言葉が口から出てくる時の感覚は分かる気がする。自分の将来や他人との関係についてのぼんやりした一連の思考とか、考えすぎて堂々巡りをしながら少しずつ進展していく自分の考えとか、学生の時に一度は経験するような、そういう言葉の追いつかない感覚を示しているよう。意味に共感はできずとも、自分の中の過去の感覚を呼び起こされる。
 そういった言葉を、籠ったまま何重にも響く背後の音と聴いていると、自分の昔のことについて単に思い出すというよりか、その過去の時点に向かって今の自分の要素が削ぎ落ちていく感じがした。

次回予告

次回は、ボアダムス『スーパー・アー』を扱います。

#或る歴史或る耳
#音楽
#アルバムレビュー
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