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フリッパーズ・ギター『ヘッド博士の世界塔』(1991)

アルバム情報

アーティスト: フリッパーズ・ギター
リリース日: 1991/7/10
レーベル: ポリスター
「50年の邦楽ベスト100」における順位は12位でした。

メンバーの感想

The End End

 どうしたんだろう、この2人。喧嘩でもしたのかな…
 というのは冗談として、前作までの感想で“ハッピーさで塗りつぶすことで、逆説的にネガティブな物事の存在を示しているようだ”と書いたのだけど、この作品においてそのハッピーさは“希求するけど手にできないもの”になっているような気がする。これは、サウンドにだけフォーカスした感想ですが。
 これまで聴いてきた作品には海外由来のジャンルやコミュニティをどう背負うか、というテーゼを感じていたのだけど、ここには“最終的にロックとしてパッケージングしさえすればなんでもアリ”な態度を感じた。その点で、私が思春期に好んできた00年代以降の日本のロックバンドたちとの強い接続を感じて、なんだか嬉しかった。

桜子

 彼らのサンプリング技術ももちろん抜群だけど、やっぱりメロディセンスがかなり高いと思う。それが大衆に愛される力と語り継がれるタイムレスな魅力をもたらしてる。
 だって、(こんなこと言ったらカッコ悪いけど)みんなやっぱりグルーヴ・チューブが好きな気がするもん。

俊介

 クーラーの聴いた友達の部屋でぼんやり久々に聞き返したらタバコが切れてしまったので、聴きながらそのまま外に買いに出た。環七を中野方面に向かって歩いていくのだけれど、そんときは、幹線道路の奥の方には陽炎がみえるくらいに暑くて、アルバムは「スリープ・マシーン」に差し掛かってた。
 以前、この企画で1stをレビューしたとき、俺の夏はDOUBLE KNOCKOUT CORPORATIONに任せるなんていったけど、ワウの聴いたギターとブーミーなベースを聴く限り、このアルバムに夏は任せられないなァと思った。
 じゃあ、一体どの季節なら任せられるんだと、まずはジャケットのデザインから季節の手がかりを探してみようじゃないかと考えて1度立ち止まってスマホを開く。iOSをアップデートしてから、再生中の音楽のジャケットが大きく表示されるようになった。
 いざつけてみるとなにもみえなくて、画面が外の陽射しの明るさに押し負けてた。んで、とりあえず画面の明るさを最大にしてみると、奇抜な2人が、よく分からないものを背景にして浮かび上がってきた。これなに?
 幾度もみたジャケットだけど、改めて凝視してるとひとつ新しい気づきを得た!
 左側の双眼鏡の小山田圭吾は、昔、安部公房の砂の女を読んだとき、頭の中で思い描いてた主人公のイメージにそっくりだった。まさにってかんじだった。
 そういえば作中のあの男って最後どうなったんだっけ?んでもってあの手元にあった文庫はどこにいったっけ、今は親がつかっているかつての自室の本棚を探せばあるんだっけ、それとも友人の誰かに貸したままそのままだっけ、とりあえず、家に帰ったらまた探してみようか。
 関係ないことに引っ張られて、肝心の季節の結論は出ないし、陽射しに慣れてない白い肌が受ける直射日光のダメージが許容量を超えてジリジリしてきたので諦めてスマホを閉じて歩き出す。最近は部屋に籠ってばかりいるので。「結局この作品に俺はどの季節を任せているんだっけか」と思うけどアスファルトの反射熱で頭がぼんやりしてくるし、砂の女に起因して思い出した、都内各所の友人宅に散らばっている延滞している大学図書の数々はどのルートで回収しにいけば最短だろうかとか、今日の夕飯はオリジンにするかスーパーつかさにしてみるかとか、いっちょ本気だしてこのまま高円寺までバスでいって大将2号店で1杯やってしまおうか、とかとか邪念が出てくるせいで肝心の季節はみつからない。
 色々考えてたら、いつのまにか「世界塔よ永遠に」は3分20秒に差し掛かって一度ブレイクを挟んでしまって、既に最寄りのコンビニはとっくに自分の後ろ側だった。
 結局、放射熱の中を折り返してハイライトとカップのコーヒーだけ買って、また陽炎の中を折り返してった。
 んでなんでこんなしょうもないことを長々語っているかっていうと、自分のなかの「ヘッド博士の世界塔」はまさにこんな感じで、なんの脈絡も意図も大きな起伏もなくて、よくよく考えれば任せるべき季節がみつからないのは当たり前で。
 俺はこの作品に、4つある季節の中の1つじゃなくて、なんかもっと人生の大きな部分を中学生のときから任せていた気がするし、同じようにフリッパーズの2人も、この作品になんか大きくてぼんやりしたものを任せてたような気がする。そんなかんじ。

湘南ギャル

 あなたが今、中学生か高校生だとするじゃないですか。同級生に、明るく屈託がない子がいる。誰にでも優しいし一緒にいたら楽しいんだけど、なかなか深く話すきっかけがないような。嫌いじゃないしむしろ好きなんだけど、なんとなく自分とは違うタイプだなって感じの。そういう子が夏休み明け、寂しそうな笑みしか浮かべられなくなっているのを見たら、一体どう思いますか?ドキドキしますよね。しましたよね?
 休み時間とかもウォークマンで音楽聴いたりして1人でいるんですよ。それでウォークマンの画面をちらっと見たら、ビーチボーイズとか聴いてるわけですよ。「ビーチボーイズとか聴くんだ〜。私はsmiley smileが1番好きだけど、、 えっパーフリくんも?」とか言って、気付いたらちょっとずつおしゃべりするようになるんです。こんな片田舎でこんなん聴いてるのウチらだけだよって、笑い合ったりね。でも卒業したら、連絡を取ることもなく疎遠になって、その時に気付くんです。なんであの子があの夏休み明け急に変わってしまったのか、自分は何も知らないと。仲良くなれた気がしてたけど、あの子はなにも打ち明けてくれなかったなと。このアルバムはそういうアルバムです。

しろみけさん

 冒頭から「God Only Knows」で笑っちゃった。でも『Pet Sound’s』より『Surf’s Up』の方を先に想起しちゃうのはなんでだろう。前作までアコースティックギターの忙しないカッティングによってカモフラージュされていた寂寥感は、ここでは滲むどころではなく、前方へと漏れ出している。
 このアルバムが出た当時は、一応解散こそはしてなかったそうだけど、それでもサンプラーの導入は魔法の答え合わせみたいで、なんだか胸がザワザワする。以前よりも整頓されたトラックの中で、“さよなら”とか“夏休みはもう終わり”とか“消える”とか、ネガティブな言葉ばかりが耳につく。波が引いた後のビーチみたいに寂しい。

 この作品は「ほんとのことを知りたくて 嘘っぱちの中旅に出る」という言葉で幕を開ける。幾つもの楽曲からメロディーやリフを拝借した上でオリジナリティを探る旅を始めるぜ、という宣言と受け取れるし、「カメラ・トーク」で歌った「嘘っぱち」の世界への諦念を抱えていくんだぜ、という宣誓でもある。その意味で「ヘッド博士の世界塔」はフリッパーズ・ギターの活動の総括として相応しいアルバムだな、と聞き返して思った。
 英米のニューウェーブ/ネオアコの音楽を参照していた時期から少し時は経ち、本作は同じ1991年に発売された2枚と共通項を見いだせる。blur「Leisure」とMy Bloody Valentine「Loveless」だ。前者のシューゲイズ的ギターロックとセカンドサマーオブラブ期のクラブミュージックを思わせるビートがもたらす陶酔感、後者の声を幾重にも重ねてサイケデリック空間を作り出す手法との共鳴。欧米の同時代のロックミュージックと方法論や影響元を共にして作られ、比肩するサウンドを構築しつつ、日本語の言語感覚の面白さを最大限拡張した、という意味で邦楽史に残る1枚だと思います。

みせざき

 もし日本の音楽にオルタナティブロックに通じるカッコ良さを求めるとしたらこういうサウンドなのかもしれない、、
 まるで高校の時Blurの『Blur』を初めて聴いた時のような、レッチリの『Californication』を初めて聴いた時のような世界観が広がりました。(何せ初めて本作を聴いたので)
 自分が邦楽に求めたカッコ良さ、というのを体現してくれる作品に感じました。上記に挙げた2枚も、まだ5,6年前に出会ったアルバム、まだ自分も若いんだなと。またこういう作品に出会えて良かったです。是非今年いっぱい沢山消化していきたいと思います。

和田醉象

 サンプリング文化の一種の極みである。それは、サンプリングの使い方でもあるし、誰でもその技法に手を染め、当たり前のように音源を使ってリリースができるようになったことをも指す。
 そこまで手広く音楽を聞いているわけでもない自分でも知っているようなフレーズの組み合わせでも彼ららしさを感じる手触り。
 いつでも新しい音楽は過去の遺産の組み合わせから生まれ、そしてその中の僅かな新要素が次のシーンを作っている、と思われてならない。
 グルーヴチューブ気持ち良すぎ。シングルに入ってるPart2も含めて素晴らしい。

渡田

 歌声は地味で、メロディに激しい展開はなく、使われているそれぞれの音の印象は淡いのだけれど、それらが遠くで聴こえたり近くで聴こえたり、複雑な立体感をもって聞こえてくる。まるで自然や水の中の環境音を音楽として細かく組み合わせているようで心地良い。
 また、「海に行くつもりじゃなかった」「カメラ•トーク」で見られた彼らの特長、自分たちが憧れた既存の音楽の雰囲気を表現しつつ、それらにはない自分達特有の音を入れ込む技術は今回も健在だった。
 今回のアルバムでは、特に曲の始まり方の部分が個性的だった。遠くから近づいてくるように大きくなる音や、ラジオから聞こえてくる音を模したようなイントロは、上述した淡い印象の音楽に上手く惹き込んでくれる。

次回予告

次回は、裸のラリーズ『77 LIVE』を扱います。

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