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大滝詠一『ロング・バケイション』(1981)

アルバム情報

アーティスト: 大滝詠一
リリース日: 1981/3/21
レーベル: NIAGARA(日本)
「50年の邦楽ベスト100」における順位は3位でした。

メンバーの感想

The End End

  “良い音”とは必ずしもハイファイであることとは一致しないのだ、ということを聴くたびに思い知らされる。これはローファイの魅力ともまた別の位相の話で、ガラスのような、ビニールのような、とにかく声とこちらの間に何かが一枚挟まっているようなボーカルの質感や、エコーによってそれぞれの音が滲み、ひとつの塊になっているみたいな感触があり、これはハイファイにもローファイにもない種類の魅力だと思う。モノミックスで聴いてみたい…あとはリズムの組み立てがいちいち狂ってるのと、SE的な音とかベースのフレージングとか、ところどころに私の知っているJ-POPにも存在する意匠が潜んでいる気がする。
 とびきり野暮ったいのがとびきりスマートで、それってつまり粋ってことだと思う。

桜子

 君は天然色、譜割り独特で歌うの難しいですよね。
 あとはスピーチバルーンの転調が大好きすぎます。毎回この快感に驚く。
 転調して綺麗に元の調に戻れるのもすごいです。胸がキュンとして、その気持ちに抗えない。大滝詠一が線路を切り替えるレバーを操作しているのが見えていて、この後どうなるのか理解しているのに心情が変化してしまうみたいな感じです。くるぞくるぞくるぞーーーーきたーうわーーーーーーまだこんな感動するんだーーーーーってなります。

俊介

 小さい頃から親のオーディオできかされてたけど、未だにピンと来ないのはなんでだろうと聞く度に思っています。大瀧詠一を理解できないコンプレックスを打開するために無理して聴いてみた時期もとうに過ぎて、今現在は理解できない自分の感性を認めようというしょぼい老子のようなタームを迎えています。
 なんとなく、50s?のアメリカポップ的なリバーブの使い方とか、70〜80年代のいけいけどんどん時期のすごい華やかさを全面に押し出した感じが苦手なのかもしれない。ほんとに享楽的な生活を送れてるときは、もしかしたら自分の隣に音楽は必要ないのかもしれない。

湘南ギャル

 良いJ-POPの教科書を読んでるみたいだった。ユーミン聴いてる時も同じことを思ったので、癖のない歌い方が雛形チックに聞こえるのかもしれない。ただ、これは現代から見た感覚であって、彼らがJ-POPの基礎を作ったからこそ、そう思うんだろう。
 以上は、流し聴きしたときの感想である。腰を据えて聴いてみたら、遊び心のかたまりだった。
 君は天然色の話をしたい。突然変わる拍子感。Bメロで急に出てくるコーン!!みたいな音。気付いちゃえばどちらも印象深いのに、BGMにしてたら気付かないくらいの溶け込み具合なのがすごい。それと、サビに行く前のギターのグリッサンドみたいな音。それまでキーボが頻繁に出てきてるのに、グリッサンドはあえてキーボにやらせない。J-POPの雛形とか最初言っちゃったけど、雛形にしては外し方が上手すぎた。君は天然色なんて何回も耳にしたことがあるはずだったが、こうも印象が変わるとは驚いた。良い曲って、変にカバーされたりオルゴールアレンジされたりして、原曲をちゃんと聴かないままイメージが下がってることがある。名曲の代償か。

しろみけさん

 壁〜。大滝がウォール・オブ・サウンドを研究し尽くして、その成果を余すところなくぶつけた傑作。そういった評価が当時からされていて、それは今も揺らぐことがないとは思う。しかし、ジザメリ以降にウォール・オブ・サウンド(的なもの)がオルタナティブな分野で用いられていることを知っている者からすれば「ディストーションギターがなくてもこういう効果って作れるんだ!」っていう驚きがあった。シューゲイザー的では全くないけども、シューゲイザーファンは楽しく聴けるのではないかと思う。

談合坂

 音楽はいくつもの要素が絡み合って構築されるのだというのを痛感する。ただ優れた作曲ができるだけでも、ただこの音作りができるだけでもここまでのものにはなり得ない。
 レイヤーの重ね方とか、ところどころに配置されている単発のSEとパーカッションとか、DAW以後の作り方っぽさを感じた。まだまだ今ほど気楽にそのようなアプローチが取れたわけではないだろうけど、後々まで多くの曲がさまざまな場面で使われているのはそういう近しさもあるのかなとか考えてみたり。

 本当に「日本は豊かだったんだなぁ」とわかる。このアルバムをオープンカーにあの子を乗せ、ドライブで流すのに似合う洒落たポップスって形で聞けた世代が羨ましいというかなんというか。今聞くと『「敢えて」現世から距離を置いた逃避型アイランドポップス』みたいな紹介になると思う。僕は吉井和哉がカバーした「さらばシベリア鉄道」がハードロックっぽくてめっちゃ好きです。大瀧詠一はなんかネッチョリしている。ネッチョリしているからウォールオブサウンドがシューゲイザーみたいにならない。

みせざき

 タイトルから、ジャケットから想像できるカラフルな音楽が、最高のポップチューンが今この時代に聴いても深みを帯びて聴こえてきます。音楽が風景として、色彩を帯びて聴こえてくる、そうした音楽体験ができる気がします。やっぱりこういうポップチューンこそ我々に馴染めるものである、と強く感じました。

和田はるくに

 何度も聞いてるから今回聞き直さずとも評が書けると思っていたが、書き出しが思いつかない。
直近で再発されたときにブックレット付きのを買ったからこのアルバムが出た背景も知っているし、当時の松本隆の苦悩も涙ものなんだが、アルバムに対して並べる言葉が見当たらない。それは、当たり前のようにこのアルバムを聞いてきたし、身近にあるものほど測り難い、ということかもしれない。そう思って聞いてみると、かなりJ-POP的で微塵も古いと思わない、普遍性がある作品だと感じる。
 一つだけ言うなら、全編リバーブ、エコーがかっているので、少し遠くで鳴らされている感じがある。異国の音楽というか、あの世から聞こえているというか。プールの中で聞く外界の音にも似ている。そこだけは他の作品と比べたときの異質感がすごい。

渡田

 ポップなアルバムだけれど、それ以上のジャンル分けが何かと聞かれると難しい。
 これより前の大瀧詠一のアルバムで多かった、分かりやすいアメリカンポップスの雰囲気はあまり感じなかったし、曲を聴いてどんな時代や風景を思い浮かべるかと聞かれたら…
 時代は今より昔のものとは思うけれど、具体的に何年代の背景に合うかと言われると分からないし、風景は少なくとも東京や海外の都市ではないけれど、日本の田舎の風景も想像できない。それこそ、ジャケットの絵のような、頭の中で思い浮かべるような理想的な避暑地がぴったり当てはまると思う。それだけ現実の具体的な場所や時間とは少しかけ離れたイメージがあった。
 80年代の日本の音楽は、こういった無国籍な印象を受けるアルバムが目立つ気がする。大瀧詠一だけでなく、この時代のユーミンや矢野顕子、坂本龍一、細野晴臣、山下達郎、忌野清志郎…達のアルバムを聴いてきてそう思う。
 それまでは、作家自身がずっと聴いていた既存の音楽への愛情や、当時の社会背景からの強い影響を感じる曲が多かったのに対し、この辺りからだんだんと、作家自身の個性(それも時代や社会に対する考えという意味の個性というより、どの時代に生きていても共感し得る、その人元来の性格という意味での個性)が、それぞれの音楽の中に上手に表れ始めて、その結果、具体的な時代や場所から浮き上がったような感覚を与えるのだと思う。
 こういった音楽は、その曲と一緒に、それを聴いた時の聴き手の状況を深く記憶に根付かせる力があると思う。
 この曲を初めて聴いた時、自分は何年生で、気候は何で、どういう気分で毎日を過ごしていたかとか、そういったものが曲と一緒になって刻みついていて、ふとしたきっかけで曲と一緒に当時の感覚がよみがえる経験はよくあるけれど、今回のアルバムもそういった感覚を呼び起こす音楽の一つだと思う。

次回予告

次回は、INU『メシ喰うな!』を扱います。

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