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早川義夫『かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう』(1969)

アルバム情報

アーティスト: 早川義夫
リリース日: 1969/11/10
レーベル: URC(日本)
「50年の邦楽ベスト100」における順位は99位でした。

メンバーの感想

The End End

 私は新しい価値観が服を着て歩いている現代っ子なので、「わらべ唄」のピアノのテープ録音であるが故の揺らぎを聴いて真っ先に”これが本質的なローファイか…!”と感じてしまった。
 本作はほぼ全編を通して(エコーを除き)モノラルでミックスされているのだが、「知らないでしょう」で突如LRに広げてダブリングされたヴォーカルが鳴り始めることで、技術的な理由からではない意図的なモノミックスであることがわかる。空間の余白を多くとることで淋しさと閉塞感を表現し、そこにエコーを響かせることで放つ言葉の行き場のなさ/孤独感が更に強調される、素晴らしいプロダクションだ。
 他にもエコーの質感でフレンチポップスのムードが演出されていたり、エコーのかかった洪水のようなピアノがオルガンと溶け合うように入れ替わりヴォーカルがそのフィードバックに埋もれていく…という展開が見られたり、テープエコーの面白さを存分に味わうことができる。楽しく聴きました。

桜子

 音が殆ど伴奏楽器のみなので、丸裸な言葉が一つ一つ、身体に刺さる。
  聴き手に想像力を持たせる説明不足な詩が素敵だなあと思っていたけど、”僕の愛の方が素敵なのに”と歌っていたり、”もてないおとこたちのうた”なんかは曲名からして至って普遍的な悩みを歌っていて、等身大な魅力を感じた。それはチャーミングな親しみやすさへと作用していて、そのギャップ感がフックになり得るな〜とも感じた。

俊介

 重いテーマの映画をみるとき、その演出に耐えきれなさそうなときは、カメラには映らない和やかな舞台裏を想像することでいつも乗り切っているけど、「かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう」を初めて聴いた時もまったく同じで、唯一違うところといえば、スタッフが打つカチンコが、早川義夫の著作「ぼくは本屋のおやじさん」の表紙に変わったことくらい。
しかし、あの児童文学よろしく、柔和なタッチで描かれたあの表紙が霞むほど、アルバムは重苦しい。かなり簡素なピアノやギターの上には、早川氏のおどろおどろしい声。
 だけど、ときに直接的な表現も厭わない早川氏の詞は絶品で、繰り返し聴くほど味が滲み出てくる。
 ジャックスの流れを汲んで、自分の愛を受け取ってくれる対象の不在と、その孤独を表現した彼の詩は、落ち込んだ日の夜中によく合う。辛い時に、励まされるより、その状況にどっぷり浸るのが好きな人にとっては最高のアルバム。昼には聴けない。

湘南ギャル

 旧字体混じりの文字と、不気味な人形を抱く、これまた不気味な女の子のジャケ。正直古くさい。サウンドもなかなか癖がありそうだと覚悟を決めて再生する。
 え?この感じ、新しくね、、?新しいだろ。「最近サンクラで見つけてさ〜 シンプルだけど癖になんだよね〜」なんて言われたら全然信じちゃいそう。Aメロとかサビとかそういうのが明確じゃない感じが、古臭さを感じさせなくてかなりイカしてる。
 最初聞いた時は暗い印象だったが、何周かしてるうちにそうでもないような気がしてくる。なんというか、自分の卑屈さとか暗さを全部わかった上でそれを受け入れてる人って、妙な潔さがある。その正々堂々としているさまからはある種の前向きさや明るさを感じる。それが、ただ暗いだけのアルバムになっていない理由なんだろう。
 曲単位でいうと、6曲目は特に気に入った。ハリのある高らかな声で(そして、きっと真面目くさった顔で)、あんなことを歌われちゃ、好きにならざるを得ない。

しろみけさん

 暗い。アルバムのどの部分をクリップしても、金太郎飴のように暗い。同時代のフォークやシャンソンの要素を取り込んだ簡素な構成とアンニュイな早川の声は勿論のこと、なにより言葉が暗い。
 だがここで留意すべきなのは、本作で早川が作詞を担当したのは一曲のみであり、その言葉が歌い手本人の情念や諦念には必ずしも由来してはいないということだ。これはポップスの歴史を鑑みれば取り立てて怪奇な現象でもないのだが、その事実を確認した上で改めて聞き返すと、トラッドな構造と先述した欧米音楽の要素をパラレルに捉えた上で最小限の音数でもってそれを表出させるという、その驚異的な仕事に嘆息してしまう。常に発見されるべき、オブスキュアな一作だ。

談合坂

 印象に残ったのは張り付くような緊張感を伴う「ローファイ」さ。今日的なリラックスやノスタルジーを喚起するようなものではなく、ノイズに気が散るようなものでもなく。暗いコンサートホールで客席に私一人だけが座っていて、否応なしにそこで鳴る音に向き合わされるような感覚。そのローファイさが却って生々しい。

 情けなさを情けないまま「うた」にしつつ、その軽妙さとピアノの旋律の憂いのバランスで生活の冷たさと睦まじさと慎ましさを「曲」として昇華している。
 「サルビアの花」における家族へのささやかな視線(サルビアの花言葉は「家族愛」らしい)は、「NHKに捧げる歌」において「いま・ここ」から「日の本」へと拡大し、一対一のエロティックな関係を描いた「聖なるかな願い」へ終着する。この視点の揺れこそ人間味の本質であり、やはりそこに「情けなさ」が内包されている。
 オルガンの音の広がりの中に声が埋没していく「朝顔」は本作のハイライトであり、日常の中にあるドラマチックな一瞬を切り取ったように聞こえた。日本のポップスは西洋から渡ってきた楽典を換骨奪胎して発展したわけだが、その前に存在していた「うた」がピアノやアコースティックギターといった西洋的なルールと混ざり合う特異な響きを持った本作は、日本の邦楽史を振り返ろうとするこの企画のトップバッターとして相応しい。

毎句八東

 この「かっこいい」に対する皮肉に溢れたアルバム名がこのアルバムの全てを物語る。
 全体に蔓延する鬱々とした雰囲気。基本ピアノorアコギの弾き語りなのは悲しさの増幅を図った故意のものなのだろうか(途中何曲かオルガンベースの曲や、ビートマシンを使う曲、ディレイを裏拍でかけるなどの奇妙な演出も陰鬱さを増長させているように聞こえた)。
 はっぴいえんどほどまがりなりな表現をせず、わかりやすい歌詞や文脈が余計心に突き刺さる。どの曲も語尾に弱々しい哀愁があり、あえて格好つけず無機質かつ単調な曲構成。泥臭くいい意味で彼の人間味が浮き彫りになっている今もなお他に類を見ない作品であると思う。

みせざき

 とにかく極限までに装飾を削ぎながらの感情、芸術表現を試みているアルバムだと感じました。ピアノの旋律とボーカルが時々ユニゾンしながら一体感を表現しているのも面白いと思いました。短調的なメロディーでここまでかと感じるほどの悲壮感ある生々しい歌詞で、聴き切ることにも一種の困難が生じてしまうほどでした。ただ気になったのはボーカルの声はとてもくっきりとした明確な輪郭をもったものだったことです。暗い中にもどこか前向きにも捉える何かがあるような、そんな雰囲気を感じさせてくれる印象も受けました。

和田はるくに

 ディスクユニオンに行くとよく1000円以下で置いてある作品。今調べてみると、60年代末に出たアルバムであり、ジャックスと並行して制作されたことが分かる。90年代に出た「この世で一番キレイもの」はかなり好きだが、よくよく思い返すとこっちはあまり聞いたことがない。実際聞いてみて感じることはザラザラした、GSの手触りがした作風が多かれ少なかれ丸くなって、早川の言葉が迫ってきている感じがしている感じがするというものだ。(まあ作品の大半が早川の作詞ではないそうだが。)「NHKに捧げる歌」なんか四畳半で徴収迫られて困窮する男の顔が見える。
 そして割と一曲が短い(12曲で44分)んだが、内容が重いんで長く感じる。歌い方だけで言ったら初期ゆら帝にかなり影響与えている。

渡田

 暗すぎてとても一気に聴けませんでした…
 二、三曲聴いては無造作に他のアルバムを聴いて、自身の正気を回復させていました…
 色々なアルバムと一緒に聴いていて気づいたのは、陰鬱なアルバムは他にも沢山あるけれど、それらと比べてこのアルバムが異色であること。
 自身の暗い部分とか、わだかまりを発動させて音楽を作っていくアーティストは沢山思いつくけれど、自分の知る限り彼らの多くはそれを歌ったり演奏する時、このアルバムみたいな態度は見せなかった。戸川純とか清志郎とか、洋楽だとイアンカーティスとかモリッシー、マリリンマンソンみたいに、演じ方の何処かに突拍子もない部分、雑な部分、ラフな部分が出るのが殆どだった。(音楽に限らず、三島由紀夫とか、ゴッホとか、ティムバートンとか自分の暗い部分を率直な形で表現できない例は枚挙に暇がないではないか)
 それに対してこのアルバムでは、演じ手は暗い歌詞をまるで他人事のように静かに綺麗に歌い切る、淡々と弾き切る。勿論全曲ともそうだという訳ではないけれど、誤魔化しの利いていない悲しいことをこうもはっきりと見せつけてくる。聴き手の方が悲しい歌詞に少しでも共感してしまうと、それが却って耐えきれなくなってしまうんじゃないか。
 「シャンソン」とか、そんなキレイな声色で歌わんで…

次回予告

次回は、はっぴいえんど『はっぴいえんど』を扱います。

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