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遠藤賢司『満足できるかな』(1971)

アルバム情報

アーティスト: 遠藤賢司
リリース日: 1971/11/10
レーベル: ポリドール(日本)
「50年の邦楽ベスト100」における順位は19位でした。

メンバーの感想

The End End

 オープニング・ナンバーの「満足できるかな」で“僕の首を切ったあの女”を呪っているのに、その後はずっと“君”を懐かしんだり「待ちすぎた僕はとてもつかれてしまった」だの「君はまだ帰ってこない」だのと、なんとも情けない男の失恋譚だなあというのが第一印象。
 去ってしまった女性のことや、うだつの上がらない生活のことが歌われていく中にふと「スモッグの雨が降る東京に住んでる みんなそのうち真っ黒けだよ やだね」なんて言葉が出てくると、やけにリアルに響いて、ラディカルなプロテストソングとはまた違った浸透のしやすさを持つんだなとも感じた。公害問題って本当に当時の大きなトピックだったんだな…
 個人的には、のちに細野晴臣が譲り受けることになる猫の“寝図美”がたくさんフィーチャーされていてニコニコしてしまいました。かわいいね。

桜子

 カレーライスの歌詞と雰囲気がやっぱり凄まじすぎる...当事者からしたら人生の分岐点となってしまうような出来事でも、マスメディアを通して届くその情報は、私たちの日常でしか無いわけで...その距離感からくる感情の麻痺は現代の私達にも通じる感覚。

俊介

 私小説みたいなアルバム。高田渡とすごい方向性が似てるなと感じて調べたら実際に親交があったよう。両者とも鋭い観察眼による私小説的な歌詞を書くのだけれども、二人の間で決定的に違うのは遠藤賢司の方が圧倒的に暗いところ!多分、高田渡は曲の中にプロテストソングを意図してたので、その音楽が大衆に対して訴求力をもたせる必要があった。そのために、ある種のポップスさというか、口ずさみやすさを念頭に置いて、軽快に描かれた高田氏の曲に対して、遠藤氏の曲は政治や経済には無関心、自室の四畳半の中で起こる出来事にしか関心がない内向的な詞とすごい聞き取りづらいボソボソした歌い方なので、最初はとっつきにくい。
 「僕は寝転んでテレビを見てる 誰かがお腹を切っちゃったって う~ん とっても痛いだろうにねえ」、テレビで流れてる三島由紀夫の切腹に興味を示さない、なんなら冷笑すら感じさせる氏の関心の矛先はキッチンでカレーを作る「君」とその隣でギターを弾く「僕」、そして「猫」。
 シニカルな歌詞の中には、ところどころ「ふふふーん」なり「弾いてるよーん」なんて間伸びした言葉が入るものだから、すごい変な世界に引き込まれてしまう。
 世間の動向にさして興味も持たないで、「君」(アルバム中、9曲に「君」が登場、それ以外の曲にもなにかしらの形で婉曲的に君の存在が暗示されている。)と自分の半径3メートル以内のあれこれに興味の全てを持っていかれる、即物的、物質主義的な姿勢から生み出される詞は、大学生のモラトリアムを過剰に享受しようとしている現在の自分にピッタリハマった。
 全体的に脱力して、ゆらゆら帝国の「あえて抵抗しない」のような、無為自然を歌うこのアルバム、四畳半フォークの良さにどっぷり浸かれます。

湘南ギャル

 日本にもブルースがやってきたのね、元気でよろしいわ、などと思いながら聞いていると、切実なメロディーに切り替わる。このアルバムを聴いた人は、日々の生活に存在する悲喜交々について思いを馳せることになるだろう。その話もぜひしたいが、高田渡とも共通してしまいそうなのでそちらで触れることにする。寝図美よこれが太平洋だ、という曲の話をしたい。会話や笑い声も入った、ラフな録音。これがもう本当に楽しそうだ。根つめて音楽を聴いたり、楽器を弾いたりしてる時、ついつい楽しさを忘れることがある。もともとは好きで音楽に触れてるはずなのに、そんなのはあんまりだ。その正反対のところにいるようなこの楽曲。音楽が嫌になりそうになったら聞きたいし、あなたにもぜひ聞いてほしい。

しろみけさん

 のっぺりしている。リファレンスにボブ・ディランがあるのは頷けるし、オープニングの「満足できるかな」が記憶の数倍アグレッシブなブルースナンバーだったから面食らったけど、それ以降の平面的な声の録り方にはニック・ドレイクやバート・ヤンシュなど英国フォークの影響を強く感じる。
 加えて詩も平面的で、僕と君の関係(と、時々猫の寝図美ちゃん)のことが、徹頭徹尾一人称視点で反多角的に描写されている。それ以外の人間は腹を切るか(「カレーライス」)慰めの嘘つきか(「早く帰ろう」)、せいぜいその程度。その実直さと見えていなさによって宙吊りにされたピュアネスに、朗らかな美しさが見出される。

談合坂

 他と比べて特別に分かりやすいわけでも、聞き取りやすいわけでもないし、むしろノイズのほうが耳に残るのに、言葉がすっと入ってくる。フォークもロックも私たちには既に歴史でしかないけど、確かにこれは「フォーク」だったんだなというのを感じる。重力と筋力のはたらきがくっきり見えるギターの音が好きです。

 私は「20世紀少年」という漫画が好きで、主人公遠藤ケンヂの名前の元になったのが遠藤賢司その人だ。「20世紀少年」は少年少女の妄想が現実を侵食していく様を広大なスケールで描いた傑作だが、その中心にあるのは四畳半で生きる少年の等身大の姿だ。「腹が空いた」「女の子にモテたい」「明日なにしようか」そんな思いと同時に窓の外を眺め「世界が終わるのなら...」という妄想をする。だから、今回初めて遠藤賢司の今作を聞いた時凄く納得した。日常を日記のように綴りながら、ギターを掻き鳴らす訳ではないが切実さが伝わってくる四畳半フォークは20世紀少年の世界観の根幹にあるものだ。

毎句八東


 衝撃的な歌詞を長調で歌い上げる「満足できるかな」に一瞬で引き込まれた。そこから始まる、ぼく、きみ、猫、を中心に繰り広げられる物語。私にとって耳を疑うような衝撃はアルバムを通して一曲目だけであったが、登場人物や彼の嘘のないキャラクターから生み出される個性的な歌詞は飽きることなく魅力として受け入れられた。ギター弾き語りを基調に限られた言葉数で自分の世界観を紡いでいく彼の姿勢に男らしさを感じる、唯一無二のアルバム。

みせざき

 この人の声一発で聴き手に爽快な感覚を与える、聴き手を引き込む歌い方がとても良いと思いました。一曲目がアップテンポのブルースだったので、2曲目以降にいきなりスローテンポなバラードになっていく感じはとても新鮮でした。「ミルクティー」のソフトタッチな歌い方はニールヤングの黄金作を想起させるなと思いました。でも後半以降またブルース感覚を徐々に戻してくる感じもまた好きでした。

和田はるくに

 『カレーライス』の印象で聞くと1発目でびっくりする。同じ70年代の終わりにリリースされる「東京ワッショイ」を彷彿とさせる内容だ(あっちはロックというかニューウェーブ内容だけど)。しかし、それぐらいでしかエンケンにちゃんと触れたことがなく、せいぜい大槻ケンヂの『カレーライス』のカバーできいたことあるくらいだ。(他には、レコファンにやたらでかい「史上最長寿のロックンローラー」というアルバムが置いてあったイメージしかない)あとウクレレも駆使しているのも印象的。たくろうのキャリアがウクレレで始まったことは有名だが、フォークではオルタナティブな表現方法としてウクレレは常套手段だったんだろうか。あと関係ないが、ブルースってダウンストローク「外は暑いのに」を聞いていて思った。

渡田

 どの曲も歌詞が印象的だった。予め用意した詩を歌っているというより、その場で思いつくがままに歌詞を繋いでいるような気もした。
予想外のリズムになったり、予想外の歌詞が出てきたり、即興音楽によくある魅力がどの曲にもあった。
 また、口笛とか鼻歌とかばかりで理屈っとぽさとは正反対の歌詞のはずなのに、曲を作った時に考えてたこと、目に入ったものが分かりやすく浮かんでくるのも特徴だと思う。
 自分の考えを少しでも詳しく伝えようと修辞に修辞を重ねた文章を書いてしまう経験は誰もがあると思うが、このアルバムはその逆。近頃は衒学的な文章ばかり触れていたからか、こういった気軽な表現に触れると、肩の力が抜けてしまう。


次回予告

次回は、フラワー・トラベリン・バンド『SATORI』を扱います。

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