見出し画像

よしだたくろう『元気です。』(1972)

アルバム情報

アーティスト: よしだたくろう
リリース日: 1972/7/21
レーベル: Odyssey/CBS Sony (日本)
「50年の邦楽ベスト100」における順位は83位でした。

メンバーの感想

The End End

 “アメリカの音楽に日本語を乗せるんだ!”という気概を強く感じるわけでもなく、ごく自然に言葉がメロディに乗っかっているように感じた。どう考えても字余りな歌詞を無理やり詰め込むことで生まれる躍動感、ここまで聴いてきたアルバムには無かったもののように思う。
 その歌詞も、「僕が思い出になる頃に 君を思い出にできない」だったり「心の中にまで土足でハイ失礼、ってね」だったり、キャッチコピー的なあざとさをあまり感じさせないのに気がつくと頭の中に引っかかっている言葉がたくさんあって、敢えて偉そうに言えばそりゃあ売れるしレジェンドになりますね…と思い知らされた。でも正直、録音とミックスはあまり好みじゃないです。

桜子

 私はつんく先生の楽曲が好きで良く聴くのですが、このアルバムを聴いた時と似たような気持ちになるなあと思いました。素直で本当の事しか言わないんだけど、時々キラーフレーズ的に作者の哲学を詩に反映させるところとか。

俊介

 いつまで経っても曲に対しての詞の乗せ方に慣れない。「高円寺」から「こっちを向いてくれ」の間の断絶にも慣れない。
慣れないことが多いこの作品が、たくさんの人に共感と一緒に迎えいれられていた時代があったと考えるとすごい不思議な気がする。
 一番フォークらしい作品で、よしだたくろうの時代のナマモノ的な部分を発見する鋭い観察眼には脱帽。でも瞬間を上手に切り取りすぎると、時の経過とともに浮き彫りになる、よくない古さとか粗みたいなのが目立ちやすくなるわけですごい難しい。
 当時に戻ってきいてみたら鮮烈なんだろうけど、平成生まれなんでしょうがない。

湘南ギャル

 世にある歌詞を見渡していると、言葉のつながりが曖昧で、行間を読ませてくることが多いように思う。実はそれが結構苦手であった。含みがあってなんにでも解釈できる作品(音楽だけじゃなくてね)が「文学的だ、、」などとチヤホヤされていると、世の中と馬が合わねーなと言う気持ちになる。軸を曖昧にして表現をサボることのなにが文学じゃい、ボケなすびがよ。そんな私にとってこのアルバムは、天からの贈り物のようだった。他人の脳内をそのまま覗いているような罪悪感が芽生えるほどの、素直で正直な物言い。しかし、実際の脳内はこんなに整然とした意味の通る言葉では溢れていない。自分の考えていることを言語化するのは、想像以上に骨の折れる作業である。その作業に向き合いすぎるくらいに向き合ったのが、このアルバムだろう。言葉で表すことを、怠けちゃいけない。

しろみけさん

 記憶の中の四畳半フォーク。普段そういうものに触れない私にとって、このアルバムは「四畳半フォークって大体こういうのだよね」という浅はかな理解を補強して止まない一枚だった。これはディスではない。それほど、吉田拓郎という存在がデファクト・スタンダードであったということだろう。
 フォーク界隈を飛び出し、強烈なまでの支持でもって大衆に迎えられた本作で描かれている表現の機微を考証する営みは、きっと数世紀後には考古学者の仕事となっていることだろう。生暖かい1972年の中央線沿いの蜃気楼が、ここには濃密にパッキングされている。

談合坂

 このアルバムだと「夏休み」と「旅の宿」しかちゃんと聞いたことがなくて、吉田拓郎といえばそういう乾いたイメージだったのですが、アルバムを通して聴いてみたらこんな若々しさのなかで歌っていたんだ、という驚きがありました。表現の引き出しが多くて、彼が作家としても活躍したというのがこのアルバムだけでもなんだか分かる気がする。

 こう立て続けに日本のフォークミュージック黎明期の作品を聴き続けると、個人の心情の開示具合や音の重ね方、リズムのよれ方など、当たり前だけれどもそれぞれの作品に明確な差異が存在していることが分かる。その中でも吉田拓郎「元気です」は、歌い手の周囲数メートルの事柄を通じた世界の記述、あるいはミクロの現象をマクロに広げ普遍性を与えた作品として最もスマートだ。「クリント・イーストウッド」や「ダーティ・ハリー」といった固有名詞を歌詞に織り込んだ「加川良からの手紙」は、吉田拓郎自身にしか起きていない手紙の交換とその手紙の内容を書き連ねただけなのに自然とその切実さや当時の情景が時を超えて届く。アレンジの多様さも乗じて、そういう意味で非常に開けた「ポップ」アルバムである。

毎句八屯


 なんで暗いことをはねのけるように溌剌としたメロディに乗せた歌はいいと感じることが多いのだろう。
 嘘がないように感じるから?辛くても頑張っていると思い知らされるから?気持ちを敷き詰められるだけつらつらと歌詞にしているから?
 全てだと思う。
 吉田拓郎はいい意味でみんなの痛いところをついているのでメインストリームでも成功したのかもしれない。でも聞くに堪えないということにはならない。陰鬱とさせるわけではないから。
 今の人付き合いに釘を刺される「親切」、どうにもならない悩みを一人で打ち明ける「たどり着いたらいつも雨降り」、結婚に中々切り出せない男の情感を描く「こっちを向いてくれ」
 どんな曲だとしても一縷の希望があるように感じる。

みせざき


 自分が今まで漠然と感じていた吉田拓郎のイメージは、少し泥くさめな雰囲気を持つフォークソングというイメージではありましたが、この作品ではアルバム通して聴き通しやすいよな、シンプルながら爽やかで軽快な雰囲気の曲も多い印象を受けました。意外にも歌詞が先行して作られたという感じだけではなく、言葉の響きを重視して作り上げたような歌も多く感じました。

和田はるくに

 直感として、「春だったね」からのA面のポップスな一面と「高円寺」からのB面のフォークさのギャップが「アナログ時代の構成だな〜」と感じる。フォークギターの録音が良く、臨場感があって、例えばマイナー調の「リンゴ」は思わず引き込まれる感覚がする。
 このアルバムに限らないが、この時代のフォークアルバムのクレジットの作詞者の多くがシンガーではないことが多い。私は以前阿久悠の仕事を詳しく研究したことがあり、どうしても歌詞の面から歌を見てしまうきらいがある。そういう知識を踏まえてこのアルバムを俯瞰するならば前提条件として提示しておきたいのが、70年代まではヒットの曲の多くは作詞者と作曲者(と歌手)が別であることが多い、ことだ。現代的な感覚で言えば、歌手に歌詞通りのイメージを添えてしまうことが多いが、この時代のヒットソングの現場の多くはしばしば分業である。その中から起きた面白い事件もある。例えば、この作品で言えば「加川良の手紙」は本当に加川の手紙上でのやりとりを歌詞にしたものだそうだが、無理やり歌にしているからか、ところどころ今っぽいメロディになっている点が目立つ。質の高いポップスでありながら、実験的である。こういう野心がこの作品をヒット作たらしめたのだろうか、と思った。

渡田

 「ノスタルジックなフォーク」と言う第一印象を更に深化させたくて何度も聴き直した。
 その中でどうしても引っ掛かりがあるのが「夏休み」。この曲の感想はノスタルジックの一言で済ませていけない気がした。
 確かに曖昧に聞いていると懐かしさを感じないこともないのだけれど、いざこの曲の言う夏休みが具体的にどんな景色なのか考えてみると、何度聞いても正しく組み上がらない。夏がテーマの曲は当然今まで何度も聴いたが、今回のこの感覚は初めてだった。
 第一、夏休みと聞いた時に真っ先に浮かぶはずの、海とか空とかの鮮やかな青色のイメージが頭に浮かばない。他の曲やアルバムジャケットのイメージに引っ張られているのかもしれないが、もっと薄暗い色のイメージ。他の曲はその色のイメージで違和感ないのだけれど…。
 好みのアルバムではなかったけど、「夏休み」が言っていた景色が一体どんなか気になる。きっと夏になったら思い出したようにまた聴く。

次回予告

次回は、頭脳警察『頭脳警察セカンド』を扱います。

#或る歴史或る耳
#音楽
#アルバムレビュー
#吉田拓郎


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?