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生きることを、追い求めた。「北条早雲TERAKOYA」(2019.11.9)

北条早雲
彼は戦国時代の先駆けといわれ、下克上の代名詞というイメージがある。
果たして真実の彼はどうだったのかー。

早雲にまつわるもので、現代でも使われているものがある。

それは”ハンコ”
そのハンコは代々北条家に受け継がれ、
のちの戦国大名も早雲に倣ってつくらせた。

1518年、伊豆国 韮山城
早雲が亡くなる一年前のこと、領内の百姓から訴えがあった
「年貢が厳しくて辛い」と。

北条の領内はこの時代としては、それほど重税ではなかった。
早雲が調査させると、代官が勝手に税をプラスして課していたのだ。

そこで彼は、自分だけが使える印判をつくり、
印がない命令には従わなくて良いという
画期的なシステムを作り上げた。

印判には「禄寿応穏(ろくじゅおうおん)」
禄と寿は応(まさ)に穏やかなるべし
(財産と生命を保障して、平穏無事な社会にする)

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下克上の世の中で、織田信長の「天下布武」といった勇ましいものでなく、
早雲がこの言葉を掲げたのはなぜか。

今回は戦国を語らせたら右に出る者はいない
プレゼンターくどはん。
さて、謎多き戦国大名 北条早雲をどう語ってくれるか、楽しみだ。

▪︎第一部 東へ・・・
早雲の前半生は諸説ありすぎて、出身地だけでも6ヶ所ほどの説がある。
その中でも「伊勢国の素浪人」という、
どこの馬の骨かわからない説が有力だった。

だが近年になり”早雲はエリート官僚だった”ということがわかってきた。

早雲の父親は、室町幕府第八代将軍 足利義政の側近。
彼は当時、伊勢盛時という名だった。

盛時も父と同じくエリート街道をまっしぐらに進むはず、だった。
しかし11歳の時におこった応仁の乱によって父が失脚、
盛時が側近として仕えていた第九代将軍 足利義尚も25歳の若さで死去
と不運が続く。

その後まもなく、将軍家の一族である足利政知の後継者、足利潤童子を
兄である足利茶々丸が殺害し、伊豆国を乗っ取る事件が勃発。

隣の相模国に少しだけ領地のあった伊勢盛時、のちの早雲は
幕府ナンバー2の細川政元から
「茶々丸倒してくれたら伊豆国をあげちゃいます」
と言われ、状況からやむなく東へ向かうことになる。

”一旗揚げるために、伊勢国の素浪人が戦を仕掛けた”という通説とは
全く違う早雲の姿が見えてくる。


▪︎第二部 早雲

やむなく東へ向かうことになった伊勢盛時。
当時の習わし通り、心機一転のために出家し”伊勢早雲庵宗瑞”と名乗る
1491年、36歳のことだ。

早雲は領地を売って旅費をつくり、東へ向けて出発、
供は右腕である大道寺守専(ほっせん)だ。

どケチとの呼び声高い(?)早雲
「いざとなったらパーっと使うけど、今は倹約!!」
と食事も先延ばしにする始末。

そんな状況で、どうやって茶々丸を倒して伊豆を手に入れられる?
考えた末、相模三崎城主 三浦道寸(どうすん)と
相模小田原城主 大森式部少輔(しきぶしょう)に加勢を頼む。

すると二人は快諾、早雲は戦を仕掛け、
足利茶々丸は伊豆大島へ落ち延びる。

早雲は勝利、しかしまだまだ弱小。
どケチの早雲は「針を蔵に積むほどの蓄財家」
と書物に残るほど蓄財に励む。

一方、足利茶々丸は関東公方 上杉顕定(あきさだ)に助けを求める。
顕定は現在の東京、埼玉、群馬あたりを治め、強大な力を持っていた。

対して早雲は伊豆一国。
大軍勢の上杉軍は猛攻を仕掛け、
大森式部少輔も上杉方に寝返ってしまう。
「要害は自落し、相模西部は一変した」と記録に残っている。

早雲、危機一髪!どうする早雲!

その時、信じられないことが起こる
1498年8月25日 明応七年地震
マグニチュード:推定8.2〜8.4
津波の高さ:4〜5m

かなりの大地震だ。
この混乱に乗じ、早雲は茶々丸を攻め、自害に追い込む。
さらに大森氏の居城、小田原城も手に入れてしまう。

現代でも機能停止になるほどの地震のあとに
早雲がこんなことを実現できたのはなぜか。

実は、蓄財家の逸話には続きがあり
「早雲は、針を蔵に積むほどの蓄財家だが、
戦争となると財宝を砕いて使うような人だ」とある。

早雲の勝因は備蓄、
そして”いざという時にはパーっと使う”ことができたからなのだ。

1495年、伊豆に拠点を置いた翌年に上杉顕定に敗北、
1498年に大地震、翌月に足利茶々丸を滅ぼし、
1500年、小田原城を奪取する。

ここだけを切り取れば、獲ったとられたの戦三昧の人物に見えるが、
天も味方につけた、堅実ですぐれた決断力を持った人物が浮かび上がる。


▪︎第三部 まさに穏やかなるべし・・・

9年後・・・1509年、早雲54歳
上杉顕定との戦は続いていたが、その最中に事件が起こる

盟友 三浦道寸が早雲を脅威に感じ、裏切ったのだ。

またもや早雲、危機一髪!

その時、上杉顕定と対立していた越後守護代 長尾為景から
「共闘しようぜ」と持ちかけられる。
為景は下剋上によって越後で台頭した人物で、上杉謙信の父だ。

味方を得た早雲は、上杉顕定が越後に侵攻する間に
右腕である大道寺発専に留守をまかせ上杉領に攻め入った。
が、三浦道寸が早雲の領地に侵攻、小田原城を攻撃する。
留守を守る兵だけで守りきれるわけもなく絶望的・・・・

ところが三浦道寸が退却したという報告が入る。
発専は守り切ったのだ。

しかし重傷を負った発専は、まもなく亡くなってしまう。

辛くも勝利したとはいえ、四方敵に囲まれた状態の早雲。
そこに驚きの知らせが入る。

ラスボス上杉顕定が長尾との戦で戦死したのだ。

好機とばかり早雲は三浦道寸を攻め、三崎城を落とし、三浦父子は討死。
ついに早雲は、敵対した山内上杉氏と同等に渡り合える領地を
手にしたのだ。

話は冒頭に戻る。
1518年、領地の問題を解決し、印判を息子 氏綱に渡して早雲は隠居する。
その前の1506年には日本初の検地も行っている。
早雲は公平な領地経営に尽力した。

元は伊勢氏であった小田原北条氏。
関東を治めるならば鎌倉時代の名門・北条氏のブランドを利用しようと
考えたもので、そのため”後北条”とも呼ばれるが、
息子氏綱から名乗った氏で、実は早雲は北条を名乗っていない。

早雲が印判に刻んだ言葉
「禄寿応穏(ろくじゅほうおん)」
禄(財産)と寿(生命)を守る。

「天下布武」を掲げた織田信長が
こういう世界をつくるんだ!!という”ゴール型リーダー”ならば、

「禄寿応穏」の早雲は
乱世を生き抜くためにたどり着いた”テーマ型リーダー”といえる。

ゴール型のリーダーの方が勇ましくかっこいい。

早雲はケチと言われようが蓄財に励み、
いざという時には使うことを惜しまない。

派手ではないけど、のちに豊臣秀吉が早雲をまねて検地をしたように、
戦にも強く、領地経営もできる。
そういう意味で”戦国大名の先駆け”であり、
”理想の戦国大名”なのだと思う。

早雲庵宗瑞、しびれる男だ。


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