「東へ征(ゆ)け」第4話 来目舞
「おーい、よい知らせじゃ。なんと、磐余彦さまがたった一人で黒鬼を仕留めなさったぞ!」
来目が誇らしげに触れて回り、村人たちを手招きしている。
広場の中心に櫓が組まれ、黒鬼の巨体が両手を広げて吊るされている。
人間の頭の数倍もある巨大な掌の鈎爪は、何人もの村人の血を啜っている。
くわっと開いた真っ赤な口を見て、恐怖のあまり泣き出す子供もいる。
肉を焼く香ばしい匂いがあたりに広がり、目の前でじわじわと焙られる大きな肉の塊を前に、村人たちは目を輝かせ、舌なめずりしている。
熊肉は大変なご馳走である。精がつくうえに強くなれると信じられている。毛皮は衣類に、胆嚢は貴重な薬にと、捨てるところがない。
「さあ皆の者、遠慮なく味わうがよい」
ウガヤフキアエズ王が高らかに宣言し、みな一斉に肉に食らいついた。
熊肉は脂身がとろけるように甘い。赤身は臭みもなく、噛めば旨みがじわじわと口中に広がる。
篝火が焚かれる中、女や子供たちの歓声が木々の間にこだまする。
ウガヤフキアエズ王の周りに侍るのは、磐余彦をはじめ四人の皇子たちである。
「よくやった。だが、次からは吾も誘うのだぞ」
長兄の五瀬命が磐余彦の首に太い腕を回した。自分を差し置いて黒鬼退治に出かけたことが不満のようだ。
「まあまあ、磐余彦も皆のためを思って声をかけなかったのでしょう」
「そうですよ。万が一兄者が傷つけば、母が悲しむでしょう」
次兄の稲飯命と三兄の三毛入野命がとりなした。
勇猛で知られる五瀬命や、末弟ながら弓の名手として誉れ高い磐余彦とは異なり、真ん中の二人の兄は狩りや武術が不得手である。
そのぶん稲飯命は稲作や塩作りで指導的な役割を果たし、三毛入野命は薬草栽培や養蚕に秀でている。いわば学者肌である。
「磐余彦さまはやっぱりすげえなあ。あの黒鬼をたった一人で倒したんだぜ」
臣下が集う席では、来目が誇らしげに語っている。日臣も肉を食う手を休め、満足気にうなずく。
皇太子である磐余彦と、奴隷の子として生まれた日臣や熊襲の来目では、身分に大きな隔たりがある。普通なら口にすることすら憚られる立場だが、誰も咎める者はいない。
日臣は勇猛果敢な戦士として、その名は遠く筑紫や出雲にも轟いている。左目の上と下に僅かな傷跡があるが、幼いころに戦いで負った傷である。
日臣は長身で逞しい肉体に加え、彫りの深い美丈夫だから当然女にももてる。しかしほんの気まぐれに女と戯れる時以外は、いつも磐余彦の側に仕えている。
女たちはそんな日臣の姿を恨めしそうに遠巻きに見るしかない。
「おいらたちは熊襲とか隼人と呼ばれて蔑まれてきた。だけど磐余彦さまはそんなおいらともあったかく付き合ってくれる。王族しか食えない旨いものも、こっそり分けてくれる」
来目が大きな瞳に涙を浮かべて熱弁をふるった。根が純真なのである。
来目の顔にある入れ墨は縄文系の特徴である。
縄文時代の末、大陸や半島から稲作とともに先進文化が移入されると、日本列島に早くから住んでいた古モンゴロイドと分類される人々は、辺境の土地に追いやられていった。
彼らは土蜘蛛と蔑まれ、階級社会の成立とともに支配下に置かれた。
磐余彦は皇太子の身でありながら、彼ら身分の低い若者たちとも分け隔てなく接し、時には彼らの地位向上のために父である王とも掛け合ってくれた。
そんな来目や日臣が磐余彦に心酔するのは当然ともいえた。
「やれやれ、これで安心して森に入れるわい」
「そうじゃ、本当によかったのう」
大きな脅威が去った喜びで、村人たちの顔も晴れやかである。
熊肉は村人すべてに行き渡り、なおも余った。
酒も出てきた。米や粟を使った醸造酒もあるが、米は貴重品である。
そのため庶民はもっぱら山芋を発酵させた芋酒を飲んだ。芋酒は匂いがきついがアルコール分が高く、よく酔える。
猿酒もある。猿酒の名は、猿が木の祠に隠しておいた果実や木の実が、猿が忘れているうちに発酵して酒になっていたことから名付けられたという。
他にヤマブドウを搾った汁に蜂蜜を加えて発酵させた甘いヤマブドウ酒などもあり、これはよい香りがするため女たちに好まれた。
皆の腹がくちくなったころ、村人たちが腰を浮かせて輪ができた。
輪の中央に立ったのは来目である。酔った男たちから「いよう、しっかり舞えよ」と声が飛ぶ。
――みつみつし
来目による舞が始まった。一族に伝わる伝統の歌舞である。
人の背丈ほどもある大きな青銅の鐘を据え、木の棒を構えた男が鐘を叩く。
打つたびに腹に染みる低い音が響く。女たちは弦を張った琴のような楽器をかき鳴らす。他の者はいっせいに足踏みと手拍子をはじめる。
来目が剣を持つ右手を天に突き上げ、左の手を水平に構える。背筋をぴんと伸ばしたまま剣を振り下ろす。
足はゆっくりと円を描き、回りきったところで軽捷に跳ねる。
着地があざやかに決まった。
「おう」とどよめきが起きる。
続けてもう一度。二度目の着地も寸分の狂いもない。
縄文の民特有の彫りの深い顔立ちが、篝火に照らされていっそう陰影を濃くしている。
≪みつみつし 来目の子等が
粟生には臭韮一本 其根茎
其根芽繋ぎて 撃ちてし止まむ≫
「力強い来目の兵が、家の垣根から生えている臭いニラを根元から引き抜くように、敵を退治してしまおう」という意味である。
のちに「来目(久米)舞」と呼ばれるこの勇壮な舞は、現存する日本最古の歌舞である。
≪みつみつし 来目の子等が
垣下に 植えし椒 口疼く
我は忘れず 撃ちてし止まむ≫
「吾も舞うぞ」
「私もじゃ」
酒に酔った男女が次々に踊りの輪に加わった。
その様子をぼんやりと眺めていた磐余彦が、はっとして日臣に訊ねた。
「塩土老翁は?」
「身体の具合が優れぬそうで、家でお休みだとお聞きしています」
「それは心配だ。今から見舞いに行くとしよう」
磐余彦は手ごろな肉の塊を持ってすぐに塩土老翁の家に向かった。
日臣も従おうとしたが「一人でよい」と止めた。
塩土老翁の家は村外れにあった。土間に茣蓙が敷いてあるだけの粗末な小屋で、家の中は暗くひっそりとしている。
「失礼します」
断って戸口の筵を開けて入った。
部屋の隅に横たわっていた塩土老翁が身体を起こした。
「わずかですが熊肉をお持ちしました。食べていただければきっと精がつきます」
「ありがたい。しかし、こんな老人には勿体のうございます」
「なんの、先生にはまだまだ多くのことを教えていただかねばなりません。皆のためにも早くお元気になってください」
塩土老翁は遠い昔に海を渡ってやってきた漢人である。磐余彦は師である塩土老翁から大陸の進んだ文化や学問、武器などについて多くを学んできた。
磐余彦は囲炉裏の種火をおこし、浅い土器の器に米を入れて持ってきた肉を細かく千切って放り込んだ、味付けは塩と山椒である。
肉入りの粥ができると、木の椀によそって塩土老翁に食べさせた。
「おお、ありがたや」
塩土老翁は拝むようにして椀を押しいただいた。熊肉には強精剤としての効果もある。
頬に赤みがさしたころ、塩土老翁は粥をすする手を止め、磐余彦に訊ねた。
「お使いになったのですね、あの弓矢を」
「そうです」
「どうでした。使い心地は」
「先生の仰るとおり凄い弓でした。真っ直ぐに飛んだ矢が黒鬼の目を貫き、脳に達しました」
「さすがはヤマト王の証。そして、それを見事に使いこなしたあなた様も立派だ」
「吾はただ弓を弾いただけです」
「いえ、あの弓は持つにふさわしい者にしか弾けません。あの弓を持つ資格が、あなた様におありになるということです」
磐余彦が黒鬼退治に用いた弓の名を天鹿児弓、矢の名を天羽羽矢という。
磐余彦は、この弓矢を手に入れた遠い昔のことを思い返していた。
(第一章終わり)
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