アイスクリーム

彼女は今日も空疎な1日を過ごしていた。親のお金で入れてもらった大学をたったの3ヶ月で行かなくなり、それ以降はバイトと趣味の生活に明け暮れていた。もちろん2年生になることはできなかった。冬の終わりに2度目の1年生になることを告げる文書が大学から送られてきたが、その文書を3行読んで中退することにした。親に伝えることもなく。
彼女の口座には決して少なくはない額の金額が入っていた。大学の授業料、月々の生活費。裕福とは言わずとも生活には困らないだけのお金が彼女の実家には入ってきていた。それ故に1人しかいない娘にお金を惜しむようなことはなかった。しかし彼女はそのお金には一切手をつけなかった。彼女は親から送られてくるお金は絶対に使うことをせず、自分のバイト代だけで過ごしていた。大学にほぼ行かず居酒屋で働いていた彼女は月に25万以上は稼いでいた。だから生活費の他に自分の趣味にも十分なお金を使うこともできていたのだ。
彼女の趣味は本を読むことと書くことだった。バイトをしている時と寝ている時以外の時間はほぼ全て本を読んでいた。そしてふっと糸が切れたように本を読まなくなったと思ったら、文章を書き出した。彼女の文章の主人公はいつも何かを失っていた。ある時は両親を失った5歳の少女、ある時は交通事故で記憶を失った少年。その誰もが自身の失ったものによって心に闇を抱え、その闇に対峙することなく逃げ、うまく生きることができず敗北し死んでいく。彼女の文章の終わりはいつもそうだった。何かを失った人間は決して上手く生きることができない。苦しみながら、痛みを受けながら、自分の闇に蝕まれていって自ら命を断つ。彼女自身、それを意識したことはなかった。彼女に撮って文章を書くことは脳の発散だった。彼女は酒に酔い、自制が効かなくなってドンドンと酒を追加していく男のように本を読むほどに次の本に手をつけていった。そうして彼女の中に溜まってしまった活字の群衆が、閾値を超えた途端に破裂して彼女の文章になる。だからある意味ではその文章に彼女の意思は介在していない。居酒屋のトイレで飲みすぎた酒を吐き出すように、活字を吐き出すのだ。だから彼女にとって死という決定された結末は意図のしないものだった。

彼は朝から腹を下していた。彼は朝にめっぽう弱いのだ。大学に行く2時間前には起きているというのに、ご飯を食べて、身支度をしているうちに次第に腹の調子が悪くなり、トイレに駆け込む。そうしてうずくまっているうちに家を出なければいけない時間は過ぎてしまっている。この事故的なまでの体の弱さを、彼は自分の原罪だと思っていた。彼は自分が犯した罪が彼の体を壊し、幸せに生きることを阻害しているのだと思っていた。それを裏付けるように彼の腹痛はその罪の翌日から起きるようになったのだ。

彼が小学3年生の頃、まだ北海道の田舎町で農家の家の子どもをしていた頃、彼には幼馴染の女の子がいた。年齢は二つ上で女の子は彼のことを弟のように可愛がっていたし彼もそんな愛情に応えるように慕っていた。年齢さえ違えば彼らはきっと結婚をするほどの恋仲になっていただろう。彼女には彼と同い年の妹がいたが、妹は早いうちに心臓の弁に病気が見つかり、度々札幌市で入院をしていたために、彼と仲良くなるようなことはなかった。もし3人で遊ぶようなことがあっても、2人の仲の良さに割って入るようなことはできなかっただろうが。

「そうちゃん、昨日黄色の糸は使ったかい?」

ある夏の日、彼の祖母は質問をした。ちょうど前日に使っていたのだが、男のくせに裁縫をしていると馬鹿にされるのが怖くて素直に応えることはできなかった。田舎とはそういうものなのだ。都会の感覚から20年は遅れている。故に女々しい男は馬鹿にされる。彼は幼馴染のユウナの真似をしてポケットティッシュケースを手編みしていたが、それを隠してなんとかやり過ごそうと頭を巡らせた。

「知らない!でも使うんだよね?俺が買ってくるよ!」

そうして彼の人生初めてのお使いが始まった。最初こそ彼のおばあちゃんは止めようとしたが、彼が行くと行って聞かないのを見て、やっと1人の男としての成長をしようとしているのだと思いお願いをすることにした。
彼が家を出たのはそれから10分にも満たなかった。町にある唯一のバス停まで20分かけて向かい、1時間後のバスを待っていた。そして、狭い田舎の町では彼のおつかいをするという話は一瞬にして広まっていった。バス停で待つこと30分。ユウナがそこに現れた。

「ねぇ、私も連れてってよ。」

ユウナは彼がおつかいに行くということを聞いて、誰よりも早く家を出た。彼女の家は田舎町の中では有名なお金持ちで、畑の真ん中にある彼の家なんかよりもずっとバス停に近い街中に住んでいた。それ故に彼の知らせを聞きつけてからそこについたのには5分も立たなかった。彼女はバス停の前にただ一つある長椅子の中央に座る彼に向けて手をサッサと払うようにして左にどかせて隣に座った。彼らに必要なのは言葉ではなく意志が通じることだった。そのまま無言でただバスを待った。
田舎のバスはきっかりと時間通りに来ることはなく、バス停に書かれている時間よりもずっと早くきた。まずはユウナが彼にその方法を見せつけるようにバスに乗り、彼はそんなことを知っているぞというようにムスッとしながら乗った。札幌までは2時間。長い道のりだ。そんな長い時間を少し会話しては無言になり、また少し会話しては無言になり、各々の時間に過度な干渉をすること
なく揺られていた。

「でんでんやろ。」

彼らが札幌に着く直前の最後の話題はついに飽きてきたユウナからの遊びの誘いだった。

「いいよ。じゃあ俺からね。」
「なんでさ。私から言ったんだから私からでしょ。」
「じゃあユウナからで。」

彼はユウナに対してはどうもぶっきらぼうになってしまうきらいがある。彼はそれを自分の中で自覚していたが、同時にそれをどうすることもできなかった。心の中ではずっとユウナのことを好きでいたのに、その思いが強くなればなるほどに態度に表せなくなっていった。だからどんなに心を表すことなできなくても、せめてユウナの誘いや願いだけは絶対応えるということを決めていた。しかし、今回だけはそうとも行かなかった。

「次は、終電札幌駅でございます。お忘れ物のないようお気をつけください。」

ユウナの気持ちは一気に心を持っていかれ、それまでの話題はすっぽりと抜けてしまった。

「ねぇ、着くって!札幌!」

ユウナにとって札幌というのは特段珍しいものではなかった。確かに距離は遠いけれど、月に一度は妹のお見舞いに来ていたし、その度に駅前の伊勢丹やエスタ、大丸で欲しいものを買ってもらっていた。でも、その日だけは特別なのだ。初めて、親の車以外で来た札幌。初めて、親のいない札幌。初めて、彼とくる札幌。いつも愛される娘として来ていた札幌駅に、彼を守る姉として降り立つのだ。彼女にとってはその役割がいつもとは違う高揚感を与えてくれた。

「ボビンが欲しいんでしょ?それならエスタに行こう。私がいつも使ってるのはそこで買ってるの。」
「ボビンじゃなくて、ボビンに巻かれた意図の方だよ。」
「おんなじようなもんじゃん。私はそれをボビンって呼んでるの。ほら行こうよ。」

そうして彼らはエスタの5階にある裁縫売り場に行き、黄色の糸を一つ手に取った。

「ユウナも欲しいものある?黄色以外に2つ好きなのを買っていいって言われたから、俺とユウナで好きなの一つずつ選ぼう。」

彼とユウナはこの色はどうだとか、あの色は今の服の色に似ているだとか、ああだこうだ言いながら時間をかけて残りの2つを選んだ。それが終わる頃には朝の10時には家を出たはずなのに14時をすぎていた。朝ごはんを食べてからそれっきり何も食べていなかった2人は流石にお腹が空いて来た。ユウナは姉らしく彼に何か食べたいものがあるかを聞き、彼がアイスを食べたいと言ったのに対しやれやれという素振りを見せて、狸小路でアイスを買って、大通りで食べようといった。彼は狸小路も大通りもなんのことかさっぱりわからなかったが、とりあえずアイスが食べられるということでそれを承諾した。
狸小路の次に大通りに行くと聞いていたが、先に着いたのは大通りだった。大通りには大きな噴水があって彼はそれをぼーっと眺めた。

「私が買ってくるから、そうちゃんはここに座ってていいよ。」

彼は僕も行くよと言うすんでのところまで来たが、その申し入れを素直に受け入れることにした。そしてユウナが離れていくのを横目にまたぼーっと噴水を眺めた。もちろん彼のこれまで住んできた田舎町にもしょぼくれた噴水はあったが、動いているところをほとんど見たとがなかったし、これほどまでに大きいものがあることが不思議でたまらなかった。彼に取って、地球の摂理がそうであるように水は上から下へ流れていくものだった。それは子ども、親、祖父母の順番で死ぬのではなく、祖父母、親、子供の順番で死んでいくことと同じぐらいには当たり前のことだった。いつも見ている用水は平面に流れているようで少し坂になっていることを彼は知っていたし、その流れに沿ってスイカを流して遊びそれを体感していた。だと言うのに、今目の前にある噴水では用水なんかよりもずっと多くの水が勢いよく上に打ち上げられていた。自分もこの中に入れば上へと飛べるのだろうか。この一度上へ上がり、もう一度落ちていく水はどこへいくのだろうか。水は次々と上から出てくるのに、なぜ下に落ちた水は溢れてこないんだろうか。そんな、これまでの常識から逸脱したそのモニュメントを見ていると時間はあっという間に過ぎていた。「買って来たよ!」そう遠くから聞こえて来たのは少し後のことだった。彼女は横断歩道の向こうから、両手にコーンの上に2段重ねられたアイスを持って、ニコニコと笑いながらこっちに今すぐにでも来たいという面持ちで立っていた。今すぐにでも飛び出してしまいそうであったが、チラチラと信号を見ながらそれが青になるのをじっと待っていた。

信号が青になった途端、ユウナは駆け出した。横断歩道の向こうから駆け足で一歩一歩と近づいてくる。僕は都会でひとりぼっちの寂しさからの解放と、アイスを食べられるという嬉しさで、恥ずかしさを忘れる大きく手を振っていた。

それは本当に本当に一瞬のことだった。大きなブレーキの音が聞こえた。黒い塊が右から左へと向かって来て途端にユウナの姿は無くなった。ただ、直前に投げ出してしまったアイスの一部だけが彼の口の中へと入って来た。彼は状況が一切飲み込めなかった。周りから聞こえてくる悲鳴もざわめきも全て耳を通って遠くへと抜けていった。ただ、口の中に入って来た鉄のような味のアイスの味を確かめてぼーっとして立っていた。 

彼女は、幼い頃に最愛の姉を亡くした。彼女は中学の時に手術をするまでずっと体が悪かった。それ故に家にいる時間よりも病院にいる時間の方が長く、月に一度来てくれる姉との時間が1番の楽しみだった。彼女の姉はいつも色んな話をしてくれた。学校のこと、最近ハマっている手芸のこと、そして2つ年下のである「そうちゃん」のこと。「そうちゃん」の本名は知らない。姉がいつもそう呼んでいたからそれで覚えてしまった。姉はいつも早くよくなって彼女と「そうちゃん」と3人で遊びたいと言っていた。しかし彼女が病気を治した頃には姉はもうこの世にはいなくなっていて、彼女の家族も姉の死をきっかけにその土地から引っ越していた。だから結局彼女はそうちゃんに出会うことがなかった。ただ、姉の愛した「そうちゃん」であり、姉が死ぬきっかけとなった「そうちゃん」という偶像だけが彼女の中に残っていた。ただ別に恨むことは全くなかった。もし会うようなことがあれば何か言ってやりたい気持ちもあったが、それよりも彼女の知らない家や町での姉がどんな存在であったかを聞いてみたかった。姉が大好きだった「そうちゃん」の口から。でも、彼女は大学の進学とともに親元を離れて東京に来てそれが叶うこともなかった。ただ、東京に来て本を読んで書いて、空疎な毎日を過ごしていた。

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