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『ウィッシュ』感想と批評。新しい挑戦としての史実の作成とその失敗

願いを失った映画『ウィッシュ』

この休日、ディズニー100周年記念作である『ウィッシュ』を見てきた。
これまでほとんどディズニー映画に類するものを見てこなかったが、この映画を十二分に楽しめるようにと約1か月の間に40を超える過去作を見て挑んだ。もちろんディズニープリンセスと呼ばれるものは全て見たし、その大半に対して概ねの満足と評価をしていた。

この『ウィッシュ』という作品はディズニー100週年という節目に対しての集大成的な意味が込められた肝いりの作品であったことは間違いないだろう。しかし、確かに映像作品としての『ウィッシュ』は十分すぎるほどに綺麗ではあったが、ストーリーの部分については、かなり深堀が甘く面白い作品であるとは言えないものだった。

このウィッシュの失敗は、キャラクターを描くことを放棄して、物語を動かすことに終始してしまったことにあると私は考えている。
これによりマグニフィコ王は悪らしい悪という満ちに進むしかできなかったし、アマヤ王妃はそんな王を救うことが叶わず自ら敵になり手に掛けるという選択を選ばざるを得なくなっていた。
主人公のアーシャですら、彼女の内面性を描くことができず「アーシャは優しすぎる」という言葉ばかりを一人歩きさせて閉まっている。これまでのディズニー作品であれば「アーシャは優しすぎる」というものは言葉ではなく行動とそれに対する周りの評価として示されているはずだ。かなり序盤の段階でこのキャラクターを描くことを放棄するという宣言が「アーシャは優しすぎる」にはなされていた。
彼女はどのように優しすぎるのか、ただ優しいのではなく”すぎる”と言わしめるのは彼女のどのような部分なのか、そしてその優しさはなぜ、国家を転覆させるほどの反逆を導いたのか。キャラクターを描くことを放棄してしまったこの作品は、ストーリーに対する説得力が損なわれてしまっている。

「願い」がテーマのこの作品において、このキャラクターの喪失は致命的に響いてしまっている。この作品で本来描かれるべきは、「願いが個人を動かし、アプローチを行うことで願いを現実にすることができる」という物であり、つまり願いこそが私たちの世界を作るというものだ。しかし、キャラクターの喪失したこの物語においては、キャラクターの願いを描き切ることができず、願いとそれに対する努力というプロセスへの誘導を明確に断念してしまっている。本来それを一番に示すべきであったアーシャは、その役割を放棄して、フェアリーゴッドマザーになるという他者から与えられた役割を担うことに留まってしまっている。

この映画の主題を達成するためには、マグニフィコ王はただの悪役=ヴィランであると捨て去ってはいけなかったはずだ。そんな自分の欲だけの悪役というものは1990年代に置いてきたはずだ。確かに彼がなぜあのような政治を取ってしまったか、ただの権力欲によるものではないというその種は蒔かれていた。であるなばこそ、本当に主人公が「優しすぎる」のであるならば、彼のトラウマを請け負い、違う選択肢を、彼の願いに対する別のアプローチを示してあげるべきだったのではないだろうか。
マグニフィコ王は、「願いに対する間違ったアプローチは間違った結果をもたらし、それが災いを起こす」というスタンスだった。それ故に彼は願いというものの力強さを肯定しながら、国民からそれを奪いその結果に至らせるプロセスを行うことを許さなかった。このスタンスに対抗しうるのは魔法を用いて国民が間違ったプロセスを選ばないように支援することであり、主人公の優しさは、まず第一にその支援の対象としてマグニフィコ王を選び、彼の願いに対する間違ったアプローチをただすことではなかったのだろうか。
これを達成したとき、はじめてアーシャの優しさが示され、マグニフィコ王の外界から脅かされずに安心して暮らしたいという願いが満たされ、アーシャの真なる願いを見つけることができたはずだ。誰から与えられた役割ではなく、一人一人の願いのために支援をしたいという”優しすぎる”願いを持つことができたはずだった。
私はウィッシュの続編が作成されたとき、このアーシャ自身願いの再定義とマグニフィコ王の救済が同時に達成されるのではないかと、想像し、願っている。

ディズニーの新しい試みとしての『ウィッシュ』とその失敗

ではなぜ、この映画はこれほどまでに失敗をしてしまったのだろうか。一晩考えた結果、私は一つの可能性が見えてきた。それは、「ベクトル」の問題である。

これまでのディズニー映画というものは往々にして、かなり内向きな動機によって形作られていた。せいぜいn=2~5人以内の人間のための行動の結果が物語描きあげていた。
1937年に公開されたディズニー映画第一作目である『白雪姫』はその物語を通してずっと白雪姫が白雪姫として生きることを描いており、n=1の作品であった。確かにヴィランとしての女王は出るが彼女は白雪姫の物語の中においては達成されるべき動機とはならない。あくまで白雪姫の動機は彼女が彼女として生きることにあるのだ。1930年代~1940年代の作品である『ピノキオ』や『ダンボ』『バンビ』においてもこれと同様な傾向が見られる。
1950年代から先は『シンデレラ』や『美女と野獣』『アラジン』といったn=2の作品が見られるようになった。つまり、プリンセスと王子さまの恋愛のための物語だ。これらの物語においてはそれぞれに問題や障壁は発生するが、その願いは特定の2人が結ばれるという内向きの物だった。たしかにこのストーリーによって彼らの半径100メートルの世界が変わるかもしれないが、それは歴史の中で見れば大した事件ではなく2人にとっての物語なのだ。
2000年代にを越えると多様性によって、プリンセスと王子さまが結ばれるという結末以外のn=2が生まれるようになった。代表的なものは「アナと雪の女王」であり、恋愛から姉妹の愛にその主軸は置かれ『シュガーラッシュ』では、少女と暴れん坊という2人が一緒にいるための物語へと向かった。
しかしそれでもやはり彼ら彼女らの動機はここでも内向きだった。姉妹の蟠りを解消したい。友達でいたい。n=2の世界で描かれるものは社会についてではない。あくまで当事者たちだけの物語なのだ。悪役こそ存在し得るものの、それによって描かれる最終生産物は個人的な問題に対するアプローチだった。

他方、今回の『ウィッシュ』の問題は発端こそ祖父の願いであったが、問題そのものは明確に国家の解放であり、これまでの内向きな個人的なものにはない、外向きの社会的なアプローチであった。
それ故にアーシャを構成する要素に彼女と結ばれるべき特定の男性は存在しえないし、そういった彼女個人というレベルの問題解決を必要としていない。nは特定の数から無数の社会へと伸びていった。これ自体はディズニーの新たな道として歓迎すべきものであるはずだったが、この映画においてはアーシャは国の問題を解決するという役割に押しつぶされて、国の歴史を構成する1人の舞台装置以上の役割を果たせなくなっている。

本来歓迎すべきと記述した通り、外的なものになった途端に物語やキャラクターが成立しなくなるというわけではない。
同じディズニー系列であれば、アベンジャーズインフィニティウォーとそれに続くエンドゲームや、スターウォーズと言った作品群は外的でありながらにそのキャラクターを失うことなく、むしろ何十年と愛されるキャラクターへと昇華している。

またディズニー作品の中では『モアナと伝説の海』は、限りなく外的なものを対象としていたが一つの物語として崩れることはなかった。
この違いは何か。モアナは物語の中で、海に選ばれ、厄災を退けようと外敵に振舞う。しかし、結果的にこの物語で果たされるものはモアナ自身の「海への好奇心・自由」であり、それを支援するマウイとのn=2の関係性の構築というあくまでも内的な欲求の解消に会った。これ理由づけるのが、物語終盤の炎の悪魔テ・カァとの対峙した場面である。彼女はこの時、海への好奇心とマウイとの関係性の構築という二つの目的を達成してしまっている。つまり、彼女がテ・カァと対峙したタイミングでは物語の役割は終えてしまっていたのだ。それ故に彼女は願いを達成するための試練としてのテ・カァとの対戦を行うことはなかった。モアナは世界を救うように見えて、それまでの作品のように内的な動機を越えることはしていなかったのだ。

話を戻すが、『アベンジャーズ』は徹底的に外的なものに従事している。故にキャラクターではなく発生するイベント=問題そのものに焦点が当てられており、アイアンマンの物語もスパイダーマンの物語も存在しない。あくまで物語上で起きた史実が描かれているにすぎないのだ。(個別作品はまた別の側面を持つが今回はアベンジャーズのみに焦点を当てている)

スターウォーズは殊更に史実的な作品であることは誰の目から見ても明らかだ。私たちがスターウォーズを見る時、それをルークスカイウォーカーの成長と恋の物語として見ることはない。「遠い昔、遥か彼方の銀河系」で起きた独裁とその解放の史実を一つ一つのイベントを追って見ているのだ。

ウィッシュという作品は、この内的なものと外的なものの衝突によって揺らいでしまっている。
モアナと伝説の海とは逆に、ウィッシュは主人公であるアーシャと、ヴィランであるマグニフィコ王以外の描写が極端に乏しく、一見すればn=1のアーシャの物語のように描かれている。他方で、アーシャがなぜそれをするのか、この物語によってどのような成長や変化が訪れるかというn=1の作品にありがちなキャラクターの内面については一切語られない。アーシャが何をしたかという史実的な事実の陳列以上のものを示すことはできていない。この作品はディズニー作品でありながら、アベンジャーズやスターウォーズと言った史実的な作品であるのだ。それでありながら、内容は内的なアーシャの物語としての語り口を持っている。ほぼ全てがアーシャの視点によって描かれているのがそのいい例であろう。そして、これまでのディズニー映画がそうであったように、私を含めた観客もアーシャの内的な物語であると思っていたはずだ。
これは憶測にすぎないが、この物語を制作した人は内的なものと外的なものの両立を考えていたのではないだろうか。それが、超史実的なスターウォーズやMCUを買収したディズニーの新たな一歩。101年目を示すものだったのだろう。

可能性としての『ミラベルと魔法だらけの家』

ここまで、外的なもの、政治的なもの、史実的なものへの挑戦を新しいもののように記述してきたがこの徴候自体は『モアナと伝説の海』をはじめとして、2010年代後半から現れているように見える。
先述したようにモアナは結果的に彼女自身を越えることはできなかったが、n=2以上の可能性を示したし、結果的にエルサ自身の解放に落ち着いてしまいこそしたが、『アナと雪の女王Ⅱ』では、二人の関係性の先にあるn=国民の可能性を見せてくれた。また、『ラーヤと龍の王国』ではその対象を世界の平和とすることで限りなく史実に近づいたが、幼少期の友人であり因縁であるナマーリ、そしてシスー達仲間との友情、父の解放へと軟着陸してしまっていた。
どの作品においても明確に挑戦はしていたが、結果的にn=5より先の外的なものになることはできなかった。

しかし、『ミラベルと魔法だらけの家』はその点においてかなり高い精度で外的なものに近似しつつ成功を果たしているように見える。
ミラベルは魔法一家の生まれでありながら、”ギフト”と呼ばれる魔法を持つことができなかった。しかし、そんなミラベルは魔法一家の異変に気付き、それまで無能力者が故に引け目を感じていた家族と向き合うことでその異変を解決していく。
そう。この物語における目的は、個人において最も外的であり社会的である家族に焦点を当てたものなのだ。そして、ミラベルのいるマドリガル家は実質的にその土地の地主でありそこを構成する最重要なものであるが故に家族を救うことは同時に国民を救うこととなる。おかしなことに、この物語の最も最初に描かれる問題である、「ミラベルだけが無能力者である」というn=1の問題は一旦距離を置かれることとなる。そしてミラべルはそれを前提としたうえでより大きな問題へとアプローチをしていくのだ。
外向きであることを失敗した『ウィッシュ』との違いは、問題そのものが家族個人の問題に焦点を当てていたことにある。つまり、ミラベルはこの家族の危機という外向きの問題に対して問題を構成する要素の分解を行った。その結果、ミラベル以外の家族の持つ内的な問題を発見し、一人一人の内面に向き合うことで結果として大きな目的を達成するという手法を示した。これによって、ベクトルこそ外向きではあるがキャラクターにフォーカスが当てられ成功することができていた。
他方で、『ウィッシュ』においてはこの問題の分解と個々の解決を行うことができなかった。それができていれば、マグニフィコ王を構成する内向きな問題はアーシャによって解消され、結果的に国民を救うという外的で社会的、史実的な物語展開を行うことができたのではないだろうか。

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