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祖母と信仰の話

信仰…神や仏を信じ敬い、その教えに従おうとすること。特定の対象を絶対的なものとして信じこむこと。(『明鏡国語辞典 第3版』より)

母方の祖母は昔からクリスチャンで、教会は幼い頃から身近な場所だった。はじめは祖母が礼拝の間、祖父とドライブや買い物をしたり、妹と教会の端で絵を描いたり、折り紙をして待っていた。そして、そのうちに自然と子どもの礼拝に参加するようになった。元保母さんの祖母は、クリスマスになると子どもたちにキリストの誕生の紙芝居を読んでいた。親戚のお姉ちゃんはいつもパイプオルガンを弾いていた。数年通っていたが、遠方の教会だったため、部活を始めたくらいから少しずつ足が遠退き、通うことはなくなった。

その後、楽器を始めてから基礎練習の一貫でコラールを演奏することがあり、不思議と心地よさと好ましさを感じた。コラールが讃美歌だということを知ったのは大分後のことだった。現代の吹奏楽曲の中でも不思議と惹かれるフレーズを調べるとコラールが元になっていた。オーケストラを始め、1812年を演奏したときも、自分の出番のない前半部分に強く惹かれた。ロシア聖教のコラールだった。知識なんてなくても、私の中にはしっかりと刷り込まれているらしい。

そういえば、現代において「懐かしい」というと、基本的に「過去に心がひかれてしたわしい」という意味合いで使われる。だが、その元となる古語の「なつかし」は少し異なる。「なつく」を語源としており、「自然と心が惹かれる」という意味なのだ。だから初めて見知った物事にも使われる。私にとってコラールはどれも「なつかしきもの」だった。

一方で大学生以降は、数年間神社で助勤をしていた。はじめは和服が好きで、巫女さんの格好をしてみたかっただけだが、学んでみると神道はとても面白かった。様々な神さまを知るにつけ、自然や物の中に八百万の神を見出だした古代人の心を垣間見た気がした。

神さまはいるのかわからない。いるにしてもキリスト教が語る神なのか、古代の人が見出だした八百万の神なのか。けれど、どちらもとても興味深い。そして何よりそれらを信じる人の心の在りようがまた面白い。

祖母は無類の柿好きで「ばあちゃんが死んだら仏壇に柿を供えないと化けてでるよ」と言うようなお茶目なクリスチャンだが、幼い頃、私は無邪気に聞いたことがある。
「神さまはいるの?」と。
祖母は「神さまはね、目には見えないけどここにいるんだよ。」と自身の胸を指差した。神さまは心の中にいる?
「だからね、ばあちゃんが悪いことをしたら、誰が見ていなくても神様は見てるんだよ。」と続けた。まだその言葉も知らなかったけれど、これが「信仰」というものに初めて触れた瞬間だった。だからきっと強く印象に残っているのだろう。

結局のところ、私はどの神さまより「神さまは自分の心の中にいる」と言った祖母とその生き方を信じている。「信仰」とは「自分が何を信じ、何を道標として歩いていくか」ということなのではないか。不意にすとんと理解した。

おまけ

お供えと言わず、生きているうちにたくさん食べてほしいので、ふるさと納税の返礼品は真っ先に富有柿を。ふるさと納税を知らない祖母は驚きつつ、喜んでくれました。
(最初の写真は祖母の好きな秋明菊。祖母の好きな花はたくさんある。)

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