Jホラーメソッドの陳腐化について

誤解を与えてしまいそうなので先に結論を書くけれど、表題とは真逆のことを言いたくてこれを書いている。

2021年、「日本ホラー映画大賞」が創設され、そこでは新しいホラー映画の才能を求むといった言葉が並んでいる。
「新しい恐怖の表現が日本から生まれていない」といった意味合いのことをが口々に並べられているし、他の場所ではあるけれど、かつて一斉を風靡したいわゆるJホラーの作り手たちが、「Jホラーメソッドは陳腐化した」「手法でしかなくなってしまった」といった旨のことを口々に発している。
それどころか、「今じゃ髪の長い女がぼーっと立ってるのでは誰も怖がらない」とまで言う作り手も現れている。

果たして本当にそうなんだろうか?と思う。

1.あらためてJホラー史

既にご存じの方にとっては自明の流れだけれど、現在Jホラーと呼ばれる作品群は、基本的には1988年の「邪願霊」が始まりとされている。そこでは既にモキュメンタリー的手法を使い、心霊写真の怖さを映画の世界で随所に取り込み、真に怖い映画の始まりを告げている。

その後、オリジナルビデオ作品として制作された「ほんとにあった怖い話」にて制作された「夏の体育館」「霊のうごめく家」等を経て、劇場公開映画としては「女優霊」が制作され、この流れを汲んでいよいよ「リング」が公開され、一般の観客の間でも広くこの手法で撮られたホラー映画が、ひらたく言えば「日本の心霊ホラーはガチで怖い」ということが広まったことになる。

テレビでは「学校の怪談f」「G」といった形で定期的に実験の場として制作も続けられ、「Jホラー」は一気に一般化した。
さらに1999年にはやはりオリジナルビデオで「呪怨」が制作され、一部界隈である種伝説的な恐怖映画として語られ、レンタルで驚異的なペースで回転していた。

2000年になり、「呪怨 劇場版」として映画版が公開された。こちらも公開そのものはやや小規模ではあったもののヒットを飛ばし、翌年には「呪怨2 劇場版」が公開。テレビでも山程パロディ化されることとなった。

ときを同じくして、1999年には「ほんとにあった!呪いのビデオ」がレンタルビデオ店を中心にリリースされ、こちらもヒットシリーズとなった。

2.恐怖表現の進化とエスカレーション

さて、大まかにみた時に、最初の「邪願霊」から「リング」に至るまでの流れは「心霊写真・そして実話怪談の持つ恐怖感の映画化」という言い方が比較的近いと思う。
しかしながら「リング」では、クライマックスで「貞子がテレビから這い出してくる」という映画史に残る恐怖シーンが存在し、これは「心霊写真や心霊実話」の怖さとはちょっと違う。通常の心霊写真で幽霊が写真から這い出してくることはありえないし、実話怪談の中でもそこまでアグレッシブな幽霊はあまり聞かない。(インターネット以降の怪談はそうとも言い切れないのだけど、それはまた別の話)

そのことによって多くの観客は「リング」を忘れがたい存在として認識したし、「日本の心霊ホラーは怖い」ことが浸透したといえるものの、これは一つの劇薬ともいえる。
それまで「見えない」あるいは「見えすぎない」ことが怖さに繋がっていた表現が、「完全に見えている」のに「怖い」というところまでたどり着いているから怖い、というのは、それまでの歴史や経緯を踏まえていない状態では当然のように無視されることになる。

「呪怨」は真に怖い映画であるものの、「リング」のクライマックスでようやく辿り着いた表現を、特殊な構成と圧倒的な恐怖演出力によって、あたかも「幽霊をがっつり見せても怖くなる」ものであるかのように思わせた面もある。

これは「呪怨」が悪いわけではなく、「呪怨」自体は積み上げてきた表現の先としてチャレンジしていたことを、表面上だけなぞったその後の作り手が悪いわけだけど、とはいえ、観客側にしろ、あるいは送り手(プロデューサーやら会社やら)が「幽霊を呪怨みたいにバンバン出そう」という発想で、後続の作品を手掛けていた面は否定できないと思う。

「ほんとにあった!呪いのビデオ」シリーズも、元々は比較的地味な、勘違いとも取れそうな映像に混じって本気でやばそうなものがある、というくらいのバランスだったのが、技術の進歩と視聴者のハードルの上がり具合に応じて、とにかくここぞとばかりに怖いものがガンガン映る方向にエスカレートしていった節がある。

そして、「ほん呪」がエスカレートしていった(具体的には坂本一雪監督時代以降のため2002年から2005年頃と思われる)のに合わせて、「Jホラーシアター」という企画が動き始める。

3.「Jホラーシアター」の功罪

落合正幸、鶴田法男、清水崇、黒沢清、中田秀夫、高橋洋と当時の優れたJホラーの造り手を一堂に会し、6本の映画を公開する一大プロジェクトは、2004年「感染」「予言」の2本立て興行としてスタートした。

ところが、これが想定していたほどの興行収入をあげなかったものと思われる。Wikipediaで見ると興行収入は8.2億円。国内のホラー映画として見ればそう悪い数字でもなく思えるけれど、2本立てということを考えると純粋に半分くらいの興行収入になるし、前年に「着信アリ」が15億円のヒットを飛ばしていたことを考えると、かなり心もとない数字だったのは間違いない。
作品自体のクオリティは極めて高いものの、やや難解な上に若干キャッチーさに欠けていたのは否めず、「Jホラーは当たる」という目論見自体は、この時点で若干ずれが生じているのがうかがえる。

さらに、翌年ハリウッドで「呪怨」のリメイクをヒットさせ、全米初登場1位、興行収入1億ドル突破という日本人監督としては初の快挙を遂げた上で凱旋帰国し作り上げた「輪廻」は4.5億円。
「輪廻」に関しては、ハリウッド帰りということもあってか、とにかく金がかかっており、廃墟のホテルセットだけで1億かけたなんて話も当時報道されていた。

内容的にも、個人的にはかなりの傑作だと思っていて、ミステリ的な構成と、時間空間を横断しつつ、恐怖表現も潤沢に盛り込んだ内容は素晴らしい。
でも、やっぱりちょっと内容が難解ではあった。「輪廻転生」自体がちょっと難しいテーマではある。

これは致し方ない面もあるのだけど、「携帯電話」「インターネット」「ビデオテープ」など、わかりやすい日常的なモチーフを恐怖に取り込んできてヒットした、ある種わかりやすい若者向けな内容と、恐怖表現の進化が幸福に噛み合ってきたタームが徐々に終りを迎えていたのだと思う。

続く「叫」はいよいよやや混乱したミステリ的な筋と恐怖演出がミックスされており、こちらも非常に面白い映画ではあるものの、やっぱりそりゃヒットはしないだろうな、といった内容だし、さらにこちらもハリウッド帰りだった中田秀夫監督を擁した「怪談」もまるでヒットには至らなかった。

最終作となる「恐怖」は壮大な実験映画となり、さらに2010年公開ということもあり、すっかりJホラーブームは下火になっている印象になってはいた。

インタビューなんかを読むと、Jホラーシアターという企画自体、元々、制作前の時点で配給権が売れていて、ペイできていたという話なので、せっかくだから好き勝手作らせた、というたぐいのものなのかとは思うし、作品のクオリティは6作品どれも高いわけで、意義は大きかったけれど、同時にJホラーがなんとなく終わりに向かっていったのと無関係ではない。

作り手からすればより怖い映画を作ろう、という思いもあるだろうし、前と同じものをやっても仕方がないだろう、という気持ちもあるだろう。
それでも、観客側からすると、いくら怖かろうと、話の筋自体がわかりづらかったり、とっつきにくいものだとそりゃこぞって見に行くというわけにはいかない。

実際、Jホラーシアターが終わった2010年以降、今度はハリウッドで「インシディアス」「死霊館」によってジェームズ・ワンがJホラー的なメソッドを見事に用いた大ヒットホラーを手掛け、こちらは評価はあまり高くないものの、「パラノーマル・アクティビティ」もまた大ヒットを記録した。こちらもJホラーの影響(というよりは、リメイク版呪怨をはじめとしたハリウッドに輸入された心霊表現の影響)にあると考えられる。
そして、これらは日本でもヒットしている。

Jホラーシアターによって生み出された作品群や盛り上がりには価値はあるものの、結果的に「ホラーは当たらない」という空気を作ることになってしまった面があるようには思う。


4.現在地

そうこうしているうちに、日本ではホラー映画はあんまり当たらない。少なくとも国内の心霊ホラー、いわゆるJホラーはヒットを飛ばすものとはみなされなくなっていた。
この間にも「怪談新耳袋」シリーズが低予算ながら良作を生み出したりはしていたし、「クロユリ団地」が10.2億円のヒットを飛ばしたりと、決して完全に消え去ったわけではなかった。
しかし、作っているのは中田秀夫監督であり清水崇監督で、同じ作り手が並んでいた。

そして、何より問題なのは、正直言って、「クロユリ団地」にしろ続く「劇場霊」にしろ、怖くはなかった、ということだった。
清水崇監督にしても「戦慄迷宮」「ラビット・ホラー」など、意欲的な作品を手掛けているし、個人的には好きだったりするけれど、やっぱり怖くはない。

どの作品にも共通していえるのは、Jホラー的な定番メソッドを、作り手側がやや避けているようであることだった。

「貞子3D」では完全にJホラー的な作りをやめイベントにしてしまっていたし、中田秀夫監督自身が手掛けた「貞子」にしても、その後の「事故物件 恐い間取り」にしても、監督自身がインタビューで「今どきの観客は髪が長い女が立っているだけでは喜ばない」と語っていたくらいである。

原点回帰的にリブートした「呪怨 終わりの始まり」も、清水崇版の恐怖シーンを焼き直したような場面が多く、決して良い出来とはいえなかった。

とはいえ、徐々に風向きが変わってきたのが2016年だった。
「残穢」が劇場公開され、決して大ヒットとはいかなかったものの、確かな評価を得て、今でもネット上で「怖い映画」として挙げられる一本になった。「呪怨」以降はじめて、恐怖演出のある種のアップデートを果たしたと言っても過言じゃない。
同時に、本編のスピンオフとして制作された「鬼談百景」もまた、多少の出来不出来はあるものの、クオリティの高い短編オムニバスで、新世代の作り手たちが次々に恐怖演出のアップデートを行っていた。特に内藤瑛亮監督の「続きをしよう」は出色の出来だった。

そして、中田秀夫監督でもなく清水崇監督でもなく、白石晃士監督が「貞子vs伽椰子」を手掛け、こちらもヒットを飛ばした。
「貞子vs伽椰子」は企画や見た目のB級っぽさとは裏腹に、極めて周到に前半でオーソドックスな恐怖演出を盛り込んでおり、その上で後半に畳み掛ける構成が非常に上手く決まった良作だった。

超小規模なインディペンデント映画ながら、高橋洋監督が「霊的ボリシェヴィキ」を手掛け、こちらは実験映画ながら、「語り」による恐怖表現という形で新たな表現の境地を拓き、2020年には「呪怨 呪いの家」にて、三宅唱監督と組み、実在の事件と呪いという表現を試みた。

2020年は他にも「犬鳴村」が実在の心霊スポットを題材にしてヒットを飛ばし、以下「樹海村」「牛首村」とシリーズ化されている。世間的な評価は真っ二つだけれど、「犬鳴村」は現実の心霊スポットを題材にしたストーリーと、実際の心霊スポットである、ということの説得力、恐怖感を上手く混ぜ合わせており、ヒットも当然の出来だと思う。


「残穢」以降のJホラーのヒット作を見ると、どれもきちんと怖く、同時に一定のキャッチーさもあると思う。

結局のところ、「企画が傍目から見てちゃんとわかりやすく、面白そう、怖そうであること」と「実際内容も怖いこと」は非常に重要であることがわかる。
「事故物件 恐い間取り」ははっきり言って全く怖くないもののヒットしている。これはジャニーズ主演だから、とか以上に、原作のテーマ自体が人の興味を引くものだからだと思う。(とはいえ、全く怖くない、という点に関しては、結果的にこれを続けたら信頼を失ってまたヒットしなくなるだけなので、本当に責任が重いと思っている)

また、「呪怨 呪いの家」や「貞子vs伽椰子」のような良作が生まれたとはいえ、いつまでも20年以上前のコンテンツの続きをやり続けているのもちょっと苦しかったのは否めない。

5.結論

で、こうやってまとめていったことで結論づけたいのは、要は、こういうことである。

かつてJホラーがヒットしなくなったことは、

1.とりあえずホラーなら当たるからと本来の恐怖演出の要を失い怖くもなんともないホラーを一部で作りすぎたこと
2.ヒットしなくなった原因を「観客の飽き」に求め、表面上の描写をライトにしたり、掟破り的な演出をしすぎていたこと
3.観客側にとってとっつきやすい「企画」のあり方を立てなかったこと
4.昔のヒット作の続編やリブートを繰り返し過ぎてしまったこと

といった原因が考えられるんじゃないだろうか。

Jホラー的な演出が手法になりすぎてしまった、とはよく言うけれど、リー・ワネルの「透明人間」だって、「イット・フォローズ」だって、「ヘレディタリー」だって、「ホーンティング・オブ・ヒルハウス」だって、Jホラー的な恐怖演出を用いていて、そこ自体は反則はあんまりない。むしろオーソドックスなくらいだ。
でも、それを企画自体の視点の起き方や全体のルック、語り口で新しく見せている。

今最新のホラーとされているものはどれも、むしろJホラーを正しく継承し、発展させている。
だから、改めてちゃんと言っておきたいのは、「新しい恐怖」とやらは、Jホラーを否定した先にあるわけでは決してないということである。


お願いだから雰囲気だけ「ヘレディタリー」みたいにしたり、企画だけ「ミッドサマー」みたいにしたり、ビジュアルだけ「イット・フォローズ」みたいにしただけのような作品を日本で後追いでやるようなことになりませんように。


6.最後に

単なる無名のアマチュアにすぎないけれど、これは僕自身のある種のマニフェストでもある。

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