ギリシア文明
旧石器時代から青銅器時代まで
ギリシア本土に人が初めて住み着いたのは旧石器時代からです。
ギリシア先史時代に新紀元を画するのは青銅器の出現です。青銅器の使用は、小アジア方面からの人口移動に伴ってギリシアにもたらされました。
エーゲ海域の青銅器文明は「エーゲ文明」と呼ばれ、本土については初期ヘラス文化Ⅲ期、後期ヘラス文化Ⅱ期といった呼称が用いられます。
ギリシア人の先祖がギリシア本土に初めて現れたのは前2200~前2100年頃とされています。少なくとも200~300年の間隔で2つの波がギリシア本土に流入したと考えられます。
ミケーネ文明の時代
ミケーネ時代(後期ヘラス文化第Ⅰ期~Ⅲ期、約前1600~前1100年)は、本土における王国分立の時期を指し、中心地であるミケーネの名を取って呼ばれます。王が萌芽的な官僚組織を用いて強力に民衆を支配しました。
ミケーネ時代の諸王国は、規模は小さいものの、先進オリエントの影響を受けつつ発展し、地中海周辺各地に進出しました。本土の諸王国が海外への進出でクレタを凌駕しつつあることも明らかとなりました。
前13世紀後半にはギリシア本土各地で防備の強化が行われましたが、最終的にミケーネ時代の王宮は廃墟となり、ドーリア人やボイオティア人、テッサリア人などが侵入しました。
暗黒時代とポリスの誕生
前11世紀から前9世紀の「暗黒時代」には人々の移動が多く、新来のドーリア人や西北方言群のギリシア人を交え古代のギリシア人は第二の民族形成期を迎えました。この時期に「ポリス」という独自の社会構造が生まれました。
ギリシアの世界が本土以外のエーゲ海の島や小アジア西岸まで根付いた時期でもあり、村を形成して定住するようになりました。
ポリスは、各ポリスが独立した国家であり、対抗や競合の関係が潜在する一方で、ギリシア人は民族としての一体感を強く保持していました。
アーケイック期とポリスの発展
前8世紀半ばから前6世紀までをギリシア史のアーケイック期と呼びます。ポリスの歴史の初期には貴族の支配が行き渡っていましたが、前7世紀末頃に動揺が生じ、前5世紀にはポリス民主制が完成しました。
ギリシアの植民活動は、人口増加と耕地不足が原因で前8世紀半ばに始まりました。植民地は独立したポリスとして設立され、庶民の経済的蓄積と政治的発言力の増大を促しました。
スパルタとアテネの形成
スパルタは前8世紀半ばにポリスとしての基礎を固め、ヘイロータイ(隷農)体制を完成させました。前6世紀前半にはポリス民主制が成立し、ペロポネソス同盟を結びギリシア第一の強国となりました。
アテネはギリシア本土で第二波のギリシア人侵入を防ぎ切り、王政から貴族政への移行を経て、ソロンの改革やペイシストラトスの僭主政を通じて民主政を確立しました。
ポリスの栄光と凋落
前6世紀末にはスパルタとアテネがそれぞれ民主政ポリスとして基礎を固めましたが、スパルタに優位がありました。ギリシア人はオリエントとの交渉を通じて独自文化を発展させました。
イオニア植民市はペルシアに対する反乱を起こし、アテネが援軍を派遣したことでペルシアとの対立が深まりました。ペルシア戦争ではマラトンの戦いやサラミスの海戦で勝利を収め、アテネはデロス同盟を結成し、ギリシア世界の中心となりました。
ペリクレスの指導下でアテネは民主政を確立し、古典文化の盛期を迎えましたが、スパルタとの対立が深まり、戦火が拡大しました。
しかしペリクレスの地位は安泰ではなかった。スパルタとの関係悪化である。戦火はデロス同盟とペロポネソス同盟双方の加盟都市を巻き込み拡大する。
ペロポネソス戦争はアテネとスパルタの長きにわたる戦いであり、最終的にはスパルタの勝利に終わる。
戦争後、アテネは一時的にスパルタの覇権の下に置かれるが、やがて民主政を復活させる。
その後もギリシア全体は内紛が続くが、アレクサンドロス大王の時代には一時的に統一される。
しかしアレクサンドロスの死後、再び分裂し、ローマによる征服を迎えることになる。
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